今から30年ほど前、記者が小学生だった頃、休み時間の大定番は「ドッジボール」であった。わずか10分ほどの休み時間も、そして30分ほどの昼休みもみんなでドッジボールに明け暮れた毎日。当時の小学生ならば、きっとドッジボールにはそれなりの思い出があることだろう。

そして当時のドッジボールを語る上で欠かせないのが「命あげる」である。いま思えば残酷な気もするルールだが、果たしていまの小学生たちも「命あげる」を利用しているのだろうか?

・「命あげる」とは

まずは「命あげる」について説明しよう。命あげるとは、自チームの誰かがアウトになった場合、当てられていない誰かが身代わりになることで、ヒット数を相殺することが出来るローカルルールだ。

例えばAくんが当てられたとしよう。本来ならAくんは外野に回らなくてはいけないが、当てられていないBくんが外野に回ることでAくんはそのままプレイを続行できる……といった概要だ。

ローカルルールと書いたが、話を聞くと同じようなルールは日本中に存在したようだ。ただし、先生がいる授業中に適用されることはほぼなく、あくまで子供たちだけでドッジボールをする場合のみ適用されていたと記憶している。

・完全な「命あげる」要員だった

さて、私(P.K.サンジュン)は絶対的に「命をあげる側」の要員であった。当時はクラスでも1.2を争うほど背が低く、運動神経も悪かった私。15人ほどしかいないサッカー部でレギュラーを勝ち取れず、4年生まで自転車に乗れなかったほど運動は苦手であった。

我が母校。

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ただし、ドッジボールは大好きだった。というか、みんなで遊ぶのが大好きだった──。運動神経が悪く、勉強の成績はそれ以上に悪かった私にとって、みんなで遊ぶことは学校に行く意味そのもの。下手なくせにチャイムが鳴ると、一目散に校庭へ飛び出していった。

そして、命をあげるのも全くイヤではなかった。むしろ自分の命でチームが勝利する確率が上がるならば、率先して命を差し出していた記憶がある。何ならエースのシンちゃんの代わりになれると思うと、誇らしい感情さえあった。

いまになって考えると、果たしてそれが健全なのかどうかわからないが、少なくとも当時の私にとっては「命 <<<<< チームの勝利」という価値観だったのだろう。「命あげる」について様々な意見はあるだろうが、私自身は「自己犠牲の精神」と「組織力」を養う意味では優れたルールであったと考えている。

ただし、自分の娘が私と同じ「命あげる要員」だと思うと気分は複雑だ。もちろん逆に「命もらう要員」でもだ。「スポーツなんだから普通にやりなさい」と言ってしまう気もするが、それは私が浅はかな大人になってしまったということなのだろうか? 「命あげる」……意外と奥深いルールである。

執筆:P.K.サンジュン
Photo:Wikimedia Commons