2019年3月17日、ロック歌手で俳優の内田裕也さんが亡くなった。79歳だった。妻で女優の樹木希林さんを亡くしてからわずか半年余り。内田さんの訃報に各界からは悲しみの声が相次いでいる。

所属事務所は「多くの友人知人、家族に支えられて、Rock’n’Roll人生を全うすることが出来ました事をここに心よりお礼申し上げます」としているように、内田さんはまさにロックンロールな人生を歩んできた。そこで今回は『内田裕也ロックンロール伝説5連発』と題して、内田さんの軌跡を振り返っていきたい。

・日本ロックンロール界の首領

エルヴィス・プレスリーに憧れて、音楽の道を志した内田裕也さん。数々のバンド活動を経て日本ロックンロール界の首領(ドン)と呼ばれるまでになっていったが、意外と内田裕也さんの音楽活動を知らない人は多いのではなかろうか? まずはその辺りからひも解いていきたい。

・その1:「ヒット曲はほぼない」

自身が自虐ネタにしていたように、内田さんはヒット曲というヒット曲に恵まれていない。「ブルー・キャップス」「ブルージーン・バップス」「ザ・フラワーズ」などを結成、その他多くのバンドを渡り歩くが、代表曲となるようなヒット曲はなかった。

だがしかし、逆に言えばヒット曲がないままに日本ロックンロール界の首領にまでなったのは内田裕也さんしかいないだろう。まさにロックンロールである。

・その2:「ビートルズ日本公演で前座に出演」

ヒット曲には恵まれなかった内田裕也さんだが、1966年6月のビートルズ日本公演では尾藤イサオさんとのツインボーカルで前座に出演を果たしている。当時のビートルズ人気を考えれば偉業中の偉業であり、内田さんの人脈の広さやカリスマ性がわかるハズだ。

・その3:「樹木希林と長く別居」

多く人がご存じの通り、妻の樹木希林さんとは1973年に結婚後、わずか1年半で別居している。また、1981年には内田さんが無断で離婚届を提出するあたりも、まさにロックンロールとしか言いようがない(このときは樹木さんが離婚を認めず無効)。

・その4:「東京都知事選に立候補」

1991年には東京都知事選にも立候補している内田裕也さん。政見放送の場で熱唱したことはもはや伝説だ(しかもアカペラ)。この型破りな言動こそロックンローラー・内田裕也さんの真骨頂である。

・その5:「石巻でバナナとみかんを690個配布」

2011年に東日本大震災が発生した際、宮城県石巻市で「石巻は英語にするとロックンロール。他人事とは思えない」との理由で、バナナとみかんを690個ずつ配布した。全てのことをロックンロールで解釈してこそ、日本ロックンロール界の首領なのであろう。

ロックンロール以外の言葉で表すならば、まさに破天荒な生涯を送った内田裕也さん。時に賛否両論を巻き起こすこともあったが、それも内田さんの持つ純粋さであったハズだ。

最後に樹木希林さんが娘の内田也哉子さんに「なぜお父さんと別れないのか?」と問われた際に言ったとされる言葉をお送りしたい。


「だって、お父さんにはひとかけらの純なものがあるから」


心よりご冥福を申し上げます。

参照元:日刊スポーツ
執筆:P.K.サンジュン
イラスト:マミヤ狂四郎

▼ロックンロール。合掌。