旅館の「あのスペース」という言葉だけで、それがどこかピンと来る人とは仲良くなれそうな気がするし、この記事はそんな同志たちに向けてしたためている。旅館に泊まっているような気分でお読みいただければ幸いだ。
ちなみに「あのスペース」、正式名称は広縁(ひろえん)というらしいぞ。名前あったんかいって感じだが、それにしても最高だよな。旅館の「あのスペース」。
・旅館にて
いまいちピンと来ないという人のために一応ご説明しておくと、広縁とは旅館やホテルの窓際にあるスペースの総称を指す。椅子と小さなテーブルが置いてあるだけの、ぶっちゃけ何のためにあるのかよく分からない謎の空間である。
しかし、私を含め「あのスペース」に心惹かれる人は多い。なんなら部屋に入って「あのスペース」がないとちょっとガッカリする。言葉にするのは難しいのだが、何とも言えない旅情を感じさせる場所なのだ。
先日、久しぶりに一人で旅館に泊まる機会に恵まれた私は、「あのスペース」での最高に贅沢な過ごし方は何か考えていた。ただボーっと座っているのも、それはそれでいいものだが……。
部屋をぐるっと見渡してみて、まず目に入ったのがお茶の道具一式である。
普段、家だとほとんど淹れないのに、旅館のテーブルの上にこのお茶セットが置いてあると、どれ淹れてみようかな、なんてことを思ってしまう不思議。関係ないけど旅館のお茶って、大体こういう丸い器に入ってるよな。あれは茶櫃(ちゃびつ)っていうらしいぞ。
しかしである。旅館のお茶は、「あのスペース」というよりは、テーブルで「あの固い座椅子」に座って飲む方が、なんだか合っているような気がしないだろうか? 旅館か、あるいはおばあちゃんの家でしか見たことがない「あの固い座椅子」だ。
お茶もいいけど、個人的にはもっと「あのスペース」に適した飲み物があるように思う。それを今から順番にお見せしたい……ので、まずはひとっ風呂浴びてきます。
風呂から上がって、明日の支度などすべて済ませたら、小銭を持って部屋の外へ。目指すは……そう、ビールの自販機である。
・ここから本題
この時、通路や自販機のエリアが薄暗いとなお良い。背徳感がいやおうなしに高まる。聞こえるのは裸足で履いたスリッパから鳴るペタペタという足音と、自販機の「ジーーーー」という稼働音のみ。
ジュースやお茶の自販機と違い、ビールの自販機は機械そのものがどこか古めかしく、それがまた旅館ならではの趣深さを感じさせてくれる。この時ばかりはタッチでピッ! なんてしたくない。小銭をジャラジャラと投入する方が心地がいい。
で、部屋に戻ったら、すぐさま「あのスペース」へ。缶をテーブルの上にコンと置くだけで、えも言われぬ豊かな気分になってくるのは気のせいではあるまい。
これまた旅館くらいでしか見かけない、透明なケースに入ったグラスに注ぐかどうか迷うが……
いや、缶ビールはやはり直飲みするのが一番。プシュッと開けたら、一気呵成(かせい)に流し込むのが正しい作法であろう。
同じ缶ビールでも、コンビニやスーパーで買ってきたものを飲むのと、自販機で買ってきたものを飲むのとでは、風情や趣がまるで異なる。
もちろんそのぶん料金も割高にはなるものの、「あのスペース」で飲む自販機のビールには、ただビールを飲むという行為以上の、体験としての価値があると思わないか。
──以上。お酒を飲まない人にとってはやや共感しにくい話だったかもしれないが、わざわざ部屋の外の自販機まで買いに行くという手間も含めて、旅館の醍醐味であると私は考える。
ああ、早くまた「あのスペース」で無為に時間を過ごしたい。ビールを飲んで、歯を磨いたらそのまま横の布団で寝てしまいたい。この世界でもっとも狭く、もっとも存在意義が分からない、なのにもっとも落ち着く奇妙で愛おしい場所である。
執筆:あひるねこ
Photo:RocketNews24.
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