昨日2020年5月27日、当サイトにて “【松屋頂上決戦】「ごろチキ派」にモノ申す 『ごろごろ創業ビーフカレー』こそ真のカレーであると” という記事が公開された。執筆した記者・K.Masamiは記事内において、私(あひるねこ)をはじめとする一部の『ごろチキ派』に激しい批判を浴びせている。

特に私に対しては、「その目と舌は節穴ですか」などという極めて挑発的な言動も飛び出しており、こちらとしても自衛のために応戦の構えを取らざるを得ない。よって今日ここに、松屋カレー戦争の開戦を宣言する。

・発端

事の始まりは、私が2日前に執筆した “【実食】松屋の新メニュー『ごろごろ創業ビーフカレー』に “ごろチキ” 信者も一定の理解「ごろチキがいない世界線ならエースを張れた」” という記事だった。これに対する反論として公開されたのが、先述のK.Masamiによる『ごろビー』記事である。


どうやらK.Masamiは、私が『ごろビー』よりも『ごろチキ』の方が上と評価したことが気に食わないらしい。私の『ごろチキ』への愛を「まるでごろチキの彼氏面」と嘲笑し、あまつさえ「その目は曇りきってはいやしないか」などと、再三に渡り私の “目” をディスってきたのだ。もはや目潰し。

・猛攻

「たしかに激しくウマい」と一定の理解を示しつつ、「カレーでなくチキンとなり果てている」「食べさせられている」といった強い語気で、主観による『ごろチキ』の欠点を徹底的に書き連ねるK.Masami。


それだけでなく、最終的に彼女は「今回ばかりは相手が悪かった。やはり『ごろビー』こそ神」と、あろうことか私の言い回しを真似る形で本文を締めくくったのだ! そう、尋常ではない煽り方である。これは私に対する宣戦布告以外の何物でもないだろう。

・誤解

だが、K.Masamiよ。君は何か勘違いをしていないか? たしかに私は『ごろチキ』を沼と例える一方で、『ごろビー』については「まだまだ水たまり」と評した。しかし本文においては、「ごろチキ以上の味の深さ」「食べて損をすることはまずない」と、最大限の敬意を払っているのだ。


さらに言うなら、彼女が主張する「カレーとしてのトータルクオリティーの高さ」「ホテルのレストランみたいな味」と同様の感想を、実は私も『ごろビー』に抱いた。記事のボリューム上カットしただけで、K.Masamiに言われるまでもなく私は、『ごろビー』のウマさに十分痺れていたのである。

・理由

それでもなお『ごろチキ』の圧勝と書いたのは、記事にもある通り中毒性の問題に他ならない。何度も言うが、『ごろチキ』ほどの中毒性を持つメニューが他にあるだろうか? 食べているそばから「次はいつ食おうかな?」と未来を考えてしまうメニューが、本当に存在するだろうか? いや、ない!


めくるめく『ごろチキ』の素晴らしさについては今さら説明するまでもないが、最大の魅力がその中毒性にあることは間違いないだろう。例えば当サイトの創設者にして、アホな上司でお馴染み・Yoshioは、私と会うたびに「ごろチキって無性に食べたくなるよね」と、まるで壊れたオモチャのように繰り返している。


まあこれは、アホ故に自分の発言内容を忘却しているだけなのだと思うが、要は一度ハマると抜け出せなくなるような、ある種キケンとも言える魔性が『ごろチキ』にはあり、『ごろビー』にはなかった。ただそれだけの事なのだ。何ならこれは、『ごろビー』以外のすべての松屋メニューにも当てはまる。

・ごろチキ至上主義

つまり私にとっては、『ごろチキ』こそが唯一絶対の神であり、『ごろビー』を含むすべてのメニューは『ごろチキ以外』に過ぎないのである。だからK.Masamiがいくら吠えたところで、それはあくまで地上世界でのお話。天から見下ろす全能の神に、吐いた唾は届かない。


当初は私もK.Masamiの記事に対し「神への冒涜だ」と強い憤りを感じていたが、よく考えれば神がその程度の些末な出来事にお怒りになるはずがないのだ。K.Masamiも『ごろチキ』のウマさ自体は認めているのだから、寛大な心で許すのがあるべき『ごろチキ道』というものだろう。

・覚悟はあるか

だが、それでもなお K.Masamiが挑発行為を繰り返すというなら、私も全力をもってこれを迎え撃つ所存である。彼女と私は同期であり戦友だが、場合によっては今後、二人の間に血が流れることもあるはずだ。K.Masamiよ、覚悟はいいか? 私はできてる。

執筆:あひるねこ
Photo:RocketNews24.

▼開戦を決意。