この夏、熱く静かな感動を日本中にもたらしている映画『ルックバック』。原作は2021年にWeb漫画メディア「少年ジャンプ+」で公開された藤本タツキ先生の読み切りだ。

当時も大いに話題になったので、「読んだ」という人も多いと思う。異例の閲覧数を記録したほか、著名人が作品を絶賛。

筆者も例にもれず一読したのだが……実は一読しただけで終わってしまっていた。個性的で奥深い話だとは思ったものの、「身に迫る」とか「心をえぐる」というほどには文脈を理解できなかったのである。ところが。

※以下、物語のあらすじ、登場人物、設定に関する多少のネタバレを含みます。


・最初はピンと来なかった筆者

2021年当時も『ルックバック』は大きな話題となった。

すでに『チェンソーマン』を大ヒットさせていた藤本タツキ先生の作品であること、140ページを超える全編が無料で公開されたこと、世間を震撼させた実在の事件を連想させることなどから、大いに注目を集め、同時に大いに議論を呼んだと思う。

それはある種の「熱狂」だったと言ってもいい。ネット上には作品を絶賛する声があふれ、なんなら「これがわからないヤツはサブカルを語る資格がない」と言わんばかりのムーブメントだった。


筆者も読んだのだが、前述のとおりピンと来なかった。ほぼ2人の登場人物のみで淡々と進む日常と、最小限のセリフで構成される静かな表現。「行間を読む」べき作品なのに、その行間を上手く読み取れなかったと言えるかもしれない。

「これが話題なのかぁ」と他人事のように眺め、世間の熱狂に少々の圧を感じてしまうほどだった。


読み返すこともなく3年が経ち、映画が公開された。そもそも原作への感想が浅かったので、公開初月に行くようなこともなく、「評判いいみたいだから」というくらいの気持ちでのんびり出かけた。

その結果、冒頭からワケもなく涙があふれるくらい感動したのである。


・原作をわかりやすく補完するアニメーション表現

表現手法として、漫画にはなく、アニメーションにある要素。たとえば色彩、声、音楽、効果音、時間や速度の表現、コマとコマのあいだを補完する動き……それらは原作をわかりやすく「翻訳」してくれる。

原作にはないオープニングのダイナミックな表現は、この広い日本の片隅、どこにでもあるような田舎町の、どこにでもあるような家で、漫画執筆に打ち込む主人公・藤野の孤軍奮闘を際立たせる。


作品終盤まで繰り返し出てくるのが、タイトルにもつながる「背中」だが、貧乏揺すりなどアニメならではの細かい動きが登場人物の性格や心情をダイレクトに伝える。

音楽の力を使えば、まったくセリフがない場面でも登場人物の気持ちを代弁できる。


そして生身の人間の声! 藤野役の河合優実さんの演技は、藤野のちょっと小生意気な感じや、プライドの高さ、負けん気を見事に表現していた。

一方で、そのプライドを裏付ける努力をちゃんとしているから、ただの感じの悪い小学生では終わらない、愛すべき主人公になっていた。「藤野って、こういう子だったんだ!」と解像度が上がった。

さらに京本役の吉田美月喜さんの方言! 最初はびっくりしたが、これもアニメーションならではの表現手法だろう。時間の経過による言葉遣いの変化にも注目して欲しいという。


・多くのクリエイティブ職の心をえぐった理由

物語の前半は、画力自慢の藤野の挫折と再起が描かれる。ここが多くの職業人、とくにクリエイティブな職業に就く人々の共感を集めた部分だ。

人生を捧げるくらい大事にしている領域で、自分より優れた圧倒的な才能に出会ったときの衝撃。そして、どんなに努力してもそれを超えられないと理解する絶望。

多くの人は努力する前に「こりゃ無理だわ」と悟って冷めてしまうものだが、藤野は実際に血のにじむような努力をするので胸をつく。

押山清高監督は「絵描きへの賛歌」と表現しているが、絵だけでなく文章や芸能や音楽、囲碁や将棋のような勝負事、果てはスポーツにまで通ずることだと思う。

そして、たった一人に認められただけで(勝負事なら一勝しただけで)土砂降りの中でスキップしたくなる気持ち。わかりすぎるほどわかる。それが原動力なのだ。

いつしかそれは「一人じゃ足りない」「社会に認められたい」「もっと売れたい(もっと勝ちたい)」という底なしの苦しみになっていくわけだが、原点はいつだってシンプルだ。


よく芸術の世界は「自分が満足さえすればゴール」と誤解されがちだが、とんでもない。そもそも美大や芸大が倍率何十倍もの受験レースから始まるわけだし、デビュー後は芸や作品が売れなければ食べていけない。「評価されたい」「チャンスが欲しい」という気持ちは人一倍強いはずだ。

文筆活動も似ている。最初はたった一人に読んでもらうだけで嬉しかったのに、いつしか他人と自分を比べ、ときに嫉妬し、数字に一喜一憂する。


人気の上下や、批評や、世間の期待や、自分の限界に苦しんで苦しんで、それでも創作を続ける理由が『ルックバック』の終盤で描かれる。いくつにも枝分かれする世界線で、どの道をたどっても最後には同じ場所に収れんする。結局は藤野も京本も「描かずにはいられない」のだ。

筆者が受け取れていなかっただけで、そんな創作活動の本質を漫画『ルックバック』は最初から描いていた。

何かに本気で打ち込んだことが一度でもある人なら、共感せずにはいられない。映画版は原作『ルックバック』の深遠なテーマを、誰にでもわかりやすく紐解いてくれた。

筆者は不覚にも、劇場で過呼吸を起こしそうなほど号泣してしまったのである。


・稀代の名作『ルックバック』

映画を観終わったいま、原作を読み返すとひとコマ、ひとコマのもつ意味がまったく違って見える。「こういうことだったのか」と開眼した気持ちだ。

映画の冒頭から涙がこぼれたのだが、それはもちろん筆者が原作既読で、結末を知っていたからに他ならない。だからこそワンシーン、ワンシーンの意味がわかり、それがあまりにも美しくて哀しく、感情が揺さぶられた。


原作からのメッセージは、気づいていなかっただけで筆者の心の奥底に確実に存在し続けていた。それが3年越しに姿を現したような心境だ。筆者も文筆業のはしくれとして、もうちょっとだけ、もがきたい。

こんな筆者が言うのもはばかられるが、過去に原作を読んで「別に?」と思った人こそ映画版を観て欲しいと思った。テーマだとかメッセージ性だとか小難しいことを考えなくても、ノスタルジックな田園風景や叙情的な音楽が美しい良作だ。


※記事中のイメージ画像は藤本タツキ先生の故郷であり、作品の舞台とされる「秋田県にかほ市」の写真をもとに作成。実際に日本の原風景のような景色が広がる。


参考リンク:少年ジャンプ+劇場アニメ「ルックバック」
執筆:冨樫さや
Photo:RocketNews24.