先月、目が見えなくなってから初めて、1人でATMから現金を引き出せた。

数年ぶりである。

きっかけは、見えていた頃には意味を考えたこともなかった「ATM横の受話器」だった。

・急に現金が必要になった

その日は、郵便局で急きょ現金で支払いをする必要があった。

普段なら、事前に家族や友人にお願いしてATMを操作してもらう。

だが、その日は急だった。

家から1分ほどの場所に、みずほ銀行のATMだけが並ぶ無人のコーナーがある。

「そういえば、壁にインターホンみたいなものがあったような……」

見えていた頃の記憶はかなり薄いが、最悪それで誰かに相談できるかもしれない。

そのくらいの気持ちで向かった。
ATMのすぐ横の壁に取り付けられたインターホン(受話器)が、赤い丸と赤い矢印で強調されている、手描きイラスト風の画像。「壁にインターホンがあったような…」という大きな文字が下部に書かれている。

・数年ぶりに1人でATMコーナーへ

入口まで点字ブロックが続いているわけではないが、見えていた頃の記憶は残っている。

歩道にある地下鉄の換気口を白杖で確認し、その中間を越えたあたり、歩数でいうと8歩で右へ曲がれば自動ドアだ。

街頭の歩道から建物の入口(みずほ銀行のATMコーナー)へ向かうルートが、赤い矢印で描かれたスケッチ風のイラスト。

・神経使用率かなり高めで入店

店内に入ると、まずは誰かいるかを確かめる。

機械の操作音が聞こえるか。

念のため「ATMは空いてますか?」と声を出す。

……。幸い誰もいなかった。

誰もいない銀行のATMコーナーを描いた、手描き・スケッチ風のイラスト。画像の下部中央に「よかった…誰もいない」という大きな文字が配置されている

・呼び出しボタン、どこだ

たしか一番左のATMの横の壁にインターホンがあった。……気がする。

白杖を滑らせながら、まっすぐ進む。

「ガチャ」

白杖が何かにぶつかる。

記憶の通りなら、ここが一番左のATMだ。

「すぅっ……」

大きく息を吸い込んだ。

誰もいないと分かってはいるのだが、久しぶりに1人でATMに向き合うだけで、妙に緊張していた。

そして

左手で、ゆっくりゆっくりと壁を探る。

あった。

受話器を取る。

すると音声で「呼び出しボタンを押してください」という案内が流れた。

呼び出しボタン。

どこだ。

受話器の周りを、ゆっくりと手で探る。

インターホンとその周りの壁も、慎重に探る。

それらしいボタンが分からない。

ATM横の壁を探りながら上部のインターホンボタンを押す手と、その下にある受話器を「呼び出しボタン」と示す矢印のイラスト。「呼び出しボタンが見つからない…」というテキスト付き。

ここで、嫌な記憶がよみがえった。

以前、駅のトイレで流すボタンと間違えて呼び出しボタンを押してしまったことがある。

駅員さんがかけつけてくれた。

「どうしましたか?」

いや、流すボタンと間違えてしまい……。

あの気まずさは、今も忘れない。

トイレの流すボタンはなぜあんなに場所が違うのか。いつか統一してくれることを祈っている。

トイレの前で、白杖を持つ緑色のキャラクター(りょく君)が駅員から声を掛けられ、焦っている様子のイラスト。「お手伝いしましょうか?」「……いやいや、自分でなんとか探してみます…」という吹き出しテキスト付き。

あれ以来、「呼び出しボタン」という言葉には少し慎重になっている。

ここはATMコーナー。間違えて緊急用のボタンでも押したら笑えない。

インターホン作戦は、いったん諦めた。

「帰るか……」

一瞬そう思った。

でも、せっかく来たし、今は他のお客さんもいない。

見えていた頃の記憶を頼りに、普通のATM操作をやってみることにした。

・記憶だけでATMを操作してみる

まずはキャッシュカード。

差し込み口は右斜め前あたりだったはずだ。

周囲を触ると、指先に差し込み口らしい形が当たった。

「ここだ」

カードを入れる。ここまでは問題ない。

問題は画面である。

「引き出し」は、たしか左上の方だったような……。

勘で指を下ろす。

パン。

プラスチックを叩いたような乾いた音がした。

違う。

そこは画面ではない。

タッチパネルの枠か、側面の何かだ。

「画面はもう少し右か?」

そのまま指をずらした。

ガチャ。

何かが動いた。

「え?」

触ってみる。

受話器だった。

ATM本体から露出した受話器に手が触れている手描き風のイラスト。「ATMの中から 受話器が出てきた…」というテキスト付き。

・ATMの中から受話器が出てきた

ATMのこんなところに受話器なんてあったっけ?

見えていた頃に使った、いくつものATMの記憶をさかのぼる。

……あったかもしれない。

いや、たしかに見たことはある気がする。

でも、何のために付いているかなんて一度も考えたことがなかった。

恐る恐る耳に当てる。

すると

「硬貨は使用できません。」

なんのアナウンスだ?

と思ったが、さらにこう続いた。

「お支払いは1。」

「入金は2。」

これはもしや……操作の案内なのでは?

最後に、こう案内された。

「受話器のテンキーで操作をお願いします」

急に道が開けた感じがした。

どこかに数字のボタンがある。

指で探る。

あった。

ATMから取り出された、テンキー付きの受話器を片手で持っている手描きイラスト風の画像。背景にはATMの機械や、左側の壁に設置された電話機が見える

並びを触ると、電話と同じテンキーだった。

ちゃんと真ん中の「5」に小さな突起があるのも確認できた。

テンキーの「5」のボタンにある小さな突起が、赤い矢印で指し示されているイラスト。「中心の『5』の突起が配置の目印になっている」というテキスト付き

電話、クレジットカードの決済端末、電卓、それにPCのキーボードの「F」や「J」など…。

視覚に頼らず位置を確認できる工夫が、日常にたくさんあって、アクセシビリティ設計としてJISにも規格があると知ったのは、目が見えなくなってからだった。

ちなみにこの突起がタクタイルマークという名前だと知ったのは、この記事を書いている時である。

「視覚障害者のための触覚目印(タクタイルマーク)の例」として、電話、クレジットカード端末、電卓の「5」の突起、およびPCキーボードの「F」と「J」のホームポジションバーを説明する4分割のイラスト。

・受話器のテンキーで操作開始

「これなら、いける」

「私はポケベル世代だぞ」※記事末に解説あり

「1人でお金下ろせるじゃん」

音声案内に従って操作を始める。

今回必要なのは1万8000円。

暗証番号を入力。

金額を入力して「#」を押す。

音声だけを頼りに、順調に進んでいる。

そして。

カシャ。

右前のおそらく紙幣取り出し口が開く音がした。

手を伸ばす。

紙幣がある。

取る。

終わった。

数年ぶりに、1人でATMから現金を引き出せた。

・お札も、触って確認できた

私には、新しい紙幣の方がお札の種類を見分けやすい。

千円札、五千円札、一万円札で、ざらつきの位置がそれぞれ違う。

新一万円札・新五千円札・新千円札の3種類の紙幣に施された触感の識別マーク(深凹版印刷によるザラザラした斜線)を赤い丸で囲んで示した画像。「お札にはザラザラした触感の識別マークが!」というテロップ付き

・私が知らない間に、ATMはとんでもなく進化していた

今回をきっかけに、今のATMについて少し調べてみた。

今ではキャッシュカードを持っていなくても、スマホだけで現金を引き出せるATMまであった。

……なんじゃこりゃ、ATM。

私が「1人では無理」とATMから離れていた間に、ずいぶん先へ進んでいた。

このままいけば、いつか本当に、見えない私でも顔認証と音声だけでお金を下ろせる時代が来るのかもしれない。

浦島太郎になっている場合ではない。

これからは、たまには自分でATMに行って、その進化を確かめようと思う。

【「ポケベル世代」に込められた意味の解説】

家の電話。公衆電話。ポケベル。PHS。携帯電話。

私の世代は、数字のボタンを押してきた量が違う。

学生時代、愛用していたのはドコモのポケベル「センティーA」。

メッセージを送るために、電話の数字ボタンを何千回、いや何万回押したと思っているんだ。

公衆電話の前で、後ろに人が並んでいても必死に早打ちしていた時代である。

家の電話を使い過ぎて、親に怒られた記憶まで、なぜかセットでよみがえってくる。

参考リンク:みずほ銀行「バリアフリー設備アイコンの説明(視覚障がい者対応ATM)」、日本規格協会「JIS S 0011:2013 高齢者・障害者配慮設計指針―消費生活用製品における凸点及び凸バー」、タクタイルマーク、日本銀行「新しい日本銀行券の特徴」、セブン銀行「スマホATMの操作方法」、ITmedia NEWS「懐かしの『ポケベル』集結」(センティーA掲載)
執筆:緑(RYOKU)
「緑くん」キャラデザイン:原郷瑞希
Photo:RocketNews24.
イラスト:Gemini、ChatGPT