日本最大級の信者数を誇るとされる、宗教団体・創価学会。これは宗教全般に言えることだが、唐突に「創価学会」「〇〇教」と聞くとやや身構えてしまう日本人は多いハズ。見た目だけではわからないが、何かしらの宗教を信仰している人は意外と多いのだろう。

私、P.K.サンジュンの伯母はズバリ「創価学会」の信者である。どうしてそうなったのかは知らないが、ある日突然「伯母はゴリゴリの創価学会信者」であることが判明した。かなり長くなるが、今回はその話をしよう。もう1度言う、かなり長いのでお時間に余裕があるときに目を通していただきたい。

・伯母の半生

伯母は寂しかったのだと思う。どこからどう話すのが適切なのか悩んだが、創価学会の話に行く前に、本人や周囲の人から伝え聞いた伯母の半生をひも解いていきたい。一言、伯母の人生はなかなかドラマティック……言葉を変えると “壮絶” だ。

伯母は母の姉で、昭和1桁か2桁の前半生まれ。私の伯母なので、当然在日韓国人ということになる。その歳の人だから幼少期は第二次世界大戦真っただ中、そして戦争が終了して間もなく年頃を迎えた計算だ。

伯母は第一子でもあったから、おそらく当時の多くの人と同じように、下の兄弟たちの面倒を見ながら育ったのだろう。私の母を含む伯母の下の兄弟3人は大学を出ているが、伯母が大学を出たという話は聞いたことが無い。

私が聞いた「伯母の最も若い頃の話」は、伯母が20歳そこそこの頃の話だ。伯母は当時としてはとても長身で、165センチくらいはあったという。スタイルの良い伯母が夢見たのは、なんと女優。家族に内緒で当時の映画業界最大手「日活」のオーディションを受けたというのだ。

驚くことに、なんとオーディションにも合格。どの程度のオーディションなのかはわかりかねるが、微かながら女優への道も開けたらしい。……が、結局は伯母がその道に進むことは無かった。なぜなら、父(私の祖父)の猛反対を受けたからだ。

これを書くと死ぬほど長くなるので割愛するが、とにかく祖父は破天荒な人物である。いや、破天荒はカッコ良すぎる “人でなし” と言っても差し支えあるまい。最も手短なエピソードを紹介すると「金に困って息子の住んでいる家を勝手に売った男」それが私の祖父、つまり伯母の父だ。ね、人でなしでしょ?

・祖父のせいで

話を戻そう。わずかに開かれた夢への道も、祖父の反対であっさりと閉ざされてしまった伯母。後年、母も「あのとき姉さんの好きなようにさせてやれば良かったのよ」と話していたが、当時父親の命令は絶対だったのだろう。ほどなくして、伯母は祖父の決めた縁談で1度目の結婚をする。

うっすら耳にしたところによると、お相手の家は大層な資産家だったらしい。金に汚い祖父がいかにも好みそうな縁談である。……が、結婚した本人はメチャクチャな人物で、今でいうところのバクチDVなんでもござれ的な男だったようだ。数十年の時を経ても親戚一同が口汚く罵っていたくらいだから、伯母はかなりヒドい目に遭ったのだろう。

今ほど離婚が一般的ではない当時、ある意味で祖父に “掴まされた” 伯母は、若くしてバツイチになった。このとき伯母は何を思っていたのか? 祖父に対してどんな感情を持っていたのか? 私にはわからない。

で、おそらくそこまで時間が経たないうちに、伯母は2度目の結婚をする。私の母は「姉さんは本当に美人だったんだから!」と言っていたので貰い手はあったのだろう。この結婚で伯母は男の子と女の子、計2人の子供を授かる。私にとってはイトコにあたるマモル兄さんと、トモコ姉さんだ。

2度目の結婚で子宝にも恵まれ、ようやく幸せを手に入れたかのように見えた伯母。家族4人、仲睦まじく暮らしました……と言いたいところだが、残念ながらそうはならなかった。伯母は幼い子を抱えたまま、2度目の離婚をする。

この離婚の理由については、残念ながらわからない。私の母も亡くなっているため、今さら調べようにも情報源がないのだ。ただ1つだけ明らかなのは、その辺りから伯母は商売を始めたということ。具体的には水商売で、一時期はスナックやクラブなど、かなり手広くやっていたらしい。

昼夜逆転の生活を送りながらも、女手1つで2人の子供を養っていた伯母。伯母が出席できないため、私の母が2人の子供の授業参観に参加する、などということもよくあったようだ。事実、特にマモル兄さんは、私の母に良く懐いていた

・水商売と子育て

それから数十年。バブルの頃までは景気の良かった伯母の商売も、徐々に尻すぼみになり始めた時期だったのだろう。私にとっての伯母の記憶はちょうどこの頃くらいからで、年に数回母に連れられて、伯母の住む埼玉県まで遊びに行っていた。

失礼ながら、当時の伯母は「日活オーディション合格」の片りんもない、ただ小太りのオバさん。まだ小学生だった私には、やたらと威勢のいい口調とモラルにはやや欠けた言動から「あまり品のない豪快な伯母さん」というイメージしかない。

会えば「膝が痛い」「腰が痛い」と言いながら、怪しげなサプリをぐいぐい飲んでいた伯母。私や妹たちがいようと、やたらと金の話をしていたと記憶している。ただ私たちには優しく、正月でもないのに会えば「なんか買いな」と言いつつ、小さく折った1万円札を必ずくれた。

なぜ伯母は私たち(私と妹2人)に優しかったのだろう? 当然、純粋に甥っ子と姪っ子が可愛かったこともあるだろうが、おそらく可愛い盛りの我が子たちときちんと過ごせなかったことも無関係ではないハズ。長男のマモル兄さんは20歳を迎える前に、単身アメリカに移住していた。

・憎愛

私より10個くらい年上のマモル兄さんは、どうやら伯母と上手くいっていなかったようだ。理由についてはわからないが、たまにアメリカから帰ってきても、宿泊するのはいつも私の家。夏休みなどは1か月近くも我が家にいたと記憶している。

既に成人していたマモル兄さんは、伯母から愛情を受けていないと感じていたのだろうか? 私が小学生の頃、1度だけ悪気なく「おうちに帰らないの?」と聞いたことがあるが「俺に家なんてないんだよ。サンジュンは恵まれてるんだぞ。ちゃんとしたお父さんとお母さんがいて」と呟いたマモル兄さんの寂しげな表情は今でも忘れられない。

トモコ姉さんについては我が親族最大のアンタッチャブルなので割愛するが、60歳を迎えた頃、気付けば伯母は1人ぼっちになっていた。途中途中に男はいたのかもしれないが、生涯を添い遂げるような出会いはなかったハズ。伯母は寂しかったのだと思う。

ちなみに、マモル兄さんとは私の母、そして私自身も細々と交流が続いていた。マモル兄さんはアメリカでプログラマーとして生活しており、日本に帰国すると決まって我が家に数泊。あとは会社のある高田馬場の近くのマンションに住んでいたと記憶している。

中学生になっていた私は、マモル兄さんが日本滞在中1度は呼び出され、ステーキをご馳走になった後、必ず1万円の小遣いをもらっていた。マモル兄さんは伯母の話になると露骨にイヤな顔をしていたが、その1万円はいつも小さく折りたたまれていた。私はおぼろげに「また伯母さんと同じだ」と思っていたものだ。

マモル兄さんには幾度となく「サンジュン、アメリカはいいぞ。アメリカは実力さえあれば人種やバックボーンなんて関係ないんだ。お前もアメリカに来い」と言われ、私もその気になっていた時期がある。ただマモル兄さんとアメリカで会ったのは私が旅行で出かけた20歳の頃。ロスからラスベガスまで車で20時間ほどかけてひた走った1度きりであった。

それからさらにしばらくの時が経つ。商売が上手くいかなくなっていた伯母は、おそらく金銭的にきつかったのだと思う。小さく折りたたまれた1万円札は、いつしか5千円札になり、やがて千円札になっていた。そして私が25~6の頃、事件は起きる。突然、マモル兄さんが亡くなったのだ


長くてごめんなさい、ようやくこれで折り返しです。後半ではいよいよ「創価学会」が登場します。続きは次ページをご覧ください。


執筆:P.K.サンジュン
Photo:RocketNews24.