「幸せってなぁに?」簡単なようで、これほど難しい問いもないだろう。アニメ映画『幸福路(こうふくろ)のチー』は、その問いに正面から取り組んだ映画であり、鑑賞後、私たちに何かを残してくれる作品だ。

同作は、2018年、東京アニメアワード(TAAF)に彗星のごとく現れた台湾のアニメ。TAAFでは長編コンペティション部門でグランプリを受賞した。その後も各国の映画祭で賞を獲っている。

全台湾が泣いた、いや、文化背景関係なく、世界中で涙を誘っている。なぜそんなに人々の胸を打つのか。まずは、ストーリーを見てみよう。

【ストーリー】「幸せってなぁに?」1970年代の台湾、荷物をいっぱい積んだトラックで家族と共に「幸福路」へと引っ越しをする少女チー。町の名前の通り慎ましいけれど “幸せ” が詰まった情景だ。

そして時は流れて現代。米国で暮らすようになったチーは祖母の訃報を受け、久しぶりに故郷・幸福路に戻る。名門大学を卒業し、米国で就職し、結婚もしたチー。順調な人生に見えるが、どこか自分を見失ったような面持ちだ。

そんなチーが幸福路で家族や懐かしい友人たちとの再会を重ね、過去を回想しながら “心の底で求めていたもの” を探していく……というものだ。

・なぜこうも胸を打つのか / 予告編だけで泣ける

そんな『幸福路のチー』が、 2019年11月29日より日本でも公開される。それに向けて、ストーリーを4分間に凝縮したダイジェスト版が公開されると、Twitterで「予告編だけでも泣けてしまう!」という声が多数あがることに。では、なぜこんなにも胸を打つのだろう。

それはチーを見ればわかる。チーの半生には、全てでなくてもどこか自身に重なる瞬間があるのだ。

どこまでも無敵な子供時代。成長につれ親が子の “幸せ” のために敷いたレールに疑問を抱き、自立しようともがいていく。そして大人になり改めて現実に目を向けると「自分で選択した道」のはずなのに、なぜかしっくりこない……

特にこの「しっくりこない部分」こそ「幸せ」とのギャップであり、私たちが意識するしないを問わず求め続けているものではないだろうか。

「幸せ」の定義は人によって異なる。客観的に見ると、チーは決して「持たざる者」ではないはずなのに、身寄りのない幼馴染のベティの方が満たされて見えるのはなぜなのだろうか。そして、人生の岐路に立ったチーが最後にとった選択とは……共感する人もいれば、結末に疑問を抱く人もいるかもしれない。それもまた掴むのが難しい「幸せの本質」なのだろう。

・日常に散りばめられた歴史のうねりとリアリティ

本作では、時代の描かれ方にも注目したい。映画の舞台は1970年代後半~2014年頃の台湾だ。日本でいわゆる「台湾ブーム」が始まった2011年以降はさておき、それ以前の台湾は1972年の国交断絶以降、多くの日本人にとってすっぽりと抜け落ちた時代であると言える。とくに今のポップな台湾ブームを支える層にとっては生まれる前の話なので、余計に遠い存在だ。

それがチーの視点を通すと、グッと身近な存在になる。劇中に登場する「学校での台湾語(母語)の禁止」「お兄さんの警察でのお茶会」「民主化デモ」「陳水扁の総統選挙勝利による国民党の一党独裁の終了」……今では歴史的な評価がついているどんな出来事も、チーにとっては日常の延長だ。それらの事件を目の当たりにしながらも変わらず学校に行き、友達と夢を語る。その日常にリアリティが感じられるのだ。

・クスっとくる小ネタもたくさん!

そして、そのリアリティをさらに観客に引き寄せてくるのが「小ネタ」である。劇中のテレビのナレーション、部屋の壁など細かい部分にも注目してほしい。私も、ベティの部屋に貼られているポスターには「あっ!」と思わず身を乗り出してしまった! 一見、意味のない背景のような描写のなかにも、現実とリンクする仕掛けでいっぱいなのだ。

また幼いチーの空想のなかで『ガッチャマン』が登場する。これは特に私たち日本人に「チーが幼少期を過ごした台湾は同じ世界線だった」を感じさせてくれる場面のひとつだろう。

『幸福路のチー』は、人間誰もが共感する普遍性と台湾の歴史的な大きなうねりを織り交ぜて描かれた作品だ。台湾好きの人も、そうでない人も胸打たれる場面があるのではないだろうか。

・今回紹介した作品の情報

作品名  『幸福路のチー』
劇場情報 11月29日より新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町他 全国順次ロードショー
提供:竹書房、フロンティアワークス/配給:クレストインターナショナル

参考リンク:『幸福路のチー』公式サイト
執筆:沢井メグ
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▼日本語吹替版の4分間のダイジェスト映像

▼予告編