本日8月1日は「洗濯機の日」らしい。へえ、なぜに洗濯機? なんでも今日は「水の日」でもあって、そちらは節水を呼びかけるために制定されたとのこと。で、水に縁があるからという理由で「洗濯機の日」になったということだ。その通り。意味不明である。何でもありか。
しかし、私(あひるねこ)はそんな珍妙な理由さえも許そう。なぜなら、洗濯機が好きだから。もっと正確に言うと、回っている洗濯機が好きだからだ。いや……好きだった、と書くべきだろう。今やほぼ見られなくなってしまったが、回っている洗濯機とは、なぜあんなにも魅力的なのだろうか?
・回っている洗濯機の魅力
まず、“回っている洗濯機” に魅力を感じるとはどういうことなのか? あまりピンときていない人たちにご説明しなければなるまい。想像してみてほしい。洗濯機に洗濯物を入れたとする。洗剤などを入れ、コースを選択し、スイッチを押す。すると給水が始まり、洗濯が始まる。
ちなみに、今話しているのはドラム式ではなく縦型についてだ。洗濯機からはウーン、ウーンと音が鳴り出す。中で洗濯槽が回転し、衣類同士をこすり合わせて汚れを落としていくのだ。そう、この過程こそが、私にとっての至福の時間なのである。
・洗濯機を眺めるという行為
何をするかというと、回っている様子をフタを開けた状態で打ち眺める。ただそれだけ。できれば水位は高い方がいい(低いのもまたオツなのだが)。ウーン、ウーン。左に回転し、今度は右へ回転する。たまにウンッ、ウンッ、と小刻みに動いたかと思うと、一瞬の静寂。そして……。ウーン、ウーン。再び動き出す。
学生の時などは、よくその光景をボーっと見ていたものだ。楽しいとか落ち着くとか、そういった感情は特に沸かなかった。理由のない時間の浪費。感情のリセット。思考の停止。「無」。今考えると、極めて贅沢な時間だったと言える。
・水を舞う洗濯物
大事なのは、主役は洗濯機ではなく、あくまで洗われている洗濯物であるという点だ。見ているとわかるが、洗濯物の動きはなにも左右だけではない。水面に浮いていた洗濯物は気付くと見えなくなり、新たな洗濯物が浮上する。つまり縦方向にも動きがあるのだ。下からググッとまだ見ぬ洗濯物が現れた時のダイナミズムときたら!
個人的に、もっとも行為に没入できるのはタオル類の洗濯時である。Tシャツなどがあると、いくらネットに入れているとはいえ「襟元伸びたりしないかな?」などの邪念が生じてしまう。だが、タオル類ならその心配はない。より心を無にし、洗濯機を眺めることに集中できるのだ。なんという無上の喜びだろう。
・訪れる悲しみ
しかし、今の私にはもうこの行為に耽(ふけ)る手段がない。なぜか? 最近の洗濯機は、フタを開けたまま洗濯をすることができなくなったからである。フタを開けると止まってしまうか、そもそもロックがかかって開かなくなっているのだ。これが……これが人間のすることだというのか。
・洗濯機に求めるもの
ドラム式は論外。縦型は絶対に譲れない。天板がシースルーになっていて中が見える、という洗濯機も発売されたが、それではダメなのだ。水を感じたい……。あたかも波打ち際に佇んでいるかのように、あの水の動きを感じたい。ウーン、ウーン、の中に聞こえる微かな「チャプン」を、直接この耳で聞きたいのだ!
さらに言うと、最新家電っぽさも私には不要、むしろ邪魔でしかない。仮にそういったニーズに完全に応える新機種が発売されたとして、それが洗練されたボディならノーサンキューだ。別に “昭和っぽさ” を求めているわけではない。実家にあった買い替える前のヤツ、あれくらいの古さが好ましいのである。
・わかってほしい
もしかしたら、あの感覚を味わうことはもう叶わないのかもしれない。それはあまりにも大きな損失だ。しかし、それでも私は生きていこうと思う。洗濯機が回るあの光景は、この目にしっかりと焼き付いているのだから……。あなたはこの気持ち、わかるだろうか?