これからお話することは、私にとって1種のトラウマ。いつもは心の奥底に凍結保存しているのだが、毎年この時期に新社会人を目にすると解凍が始まってモゾモゾと動き出す。
20年ほど前なのに、まだ忘れられない。でも昔のことだから、いま書いたところで誰にも迷惑をかけないだろう。舞台となったお店はすでに閉店したようだし、もう時効だよな……と判断して公開することにした。
あれは私が社会人1年目の頃。当時は、残業が毎月200時間くらいある編集プロダクションに勤めていたのだが、その会社が請け負っている業務の1つに、グルメサイトに掲載するための飲食店取材があった。
食べログではないのだが、それ系のサービス。今でこそ当たり前にあるものの、当時はちょうど出始める頃で、サイトの運営会社は飲食店の取材を私の所属する編集プロダクションに委託していたのである。
以下で簡単に仕事内容を説明したい。
・飲食店の紹介シートを作成する仕事
グルメ系サイトを利用したことがある人はお分かりだろうが、店の紹介ページは大まかに2つの要素で成り立っている。営業時間や席数といったお店側の基本的な情報と、そのお店を利用した人の口コミだ。
私が任されたのは、口コミ以外の部分をまとめること。営業時間やオススメのメニューといった基本的情報をお店の人から聞いて、その内容をもとに店の紹介文を作成する。
グルメサイトへの掲載自体は営業さんが事前に話をつけてくれているので、交渉というよりヒアリングといった感じ。しかも聞く内容はだいたい決まっており、サイトの運営元は「紹介シート」まで用意してくれている。
そのシートをもとに「ランチタイムに営業はされていますか?」とか「イチオシのメニューはなんですか?」「カードでの支払いはOKですか?」といったことをお店の人に質問し、シートを埋めていく。
ちょっとだけ大変なのは紹介文の作成で、これは「お店が何を1番PRしたいか」を見極めないといけない。
たとえば、お店側が “新鮮なお刺身が売り” だと思っているのに、「喫煙者にも安心の店!」みたいな紹介文を書くと、かなりの確率で「書き直して」と言われる。
これは極端な例だけど、しっかり話を聞いていないと似たようなことが起こりがち。結果的に自分の仕事が増える。それを割けるためには、ヒアリングを流れ作業にしないことが大事だったりする。
なにより、取材先で細かいことまで聞いておいた方が紹介文を書く作業がスムーズ。だから可能な限り聞くようにしていたのだが……20年前は、それが裏目に出てしまったのだ。
・渋谷のバーで
詳しく書くと店がバレてしまうのでザックリの紹介となるが、ある日私がグルメサイトの仕事で訪れたのは渋谷のバー。
お店に入るとCDやらレコードが棚にズラーっと並んでいて、お酒の瓶もズラーっと並んでいた。渋谷にはそんな店が今もメチャクチャあるだろうが、私に対応してくれた店の店長も当時の渋谷にメチャクチャいそうなタイプだった。
というのも、見た目からしてキムタクに憧れまくっていることが一目瞭然だったのだ。
髪型、ファッション、そして話し方……。なにもかもがキムタクだった。ゆえに、上京して間もない田舎者の私は、第一印象で圧倒された。
「うわ〜〜〜〜〜これが東京の人か」と思いながら取材を始めたことを、今でも覚えている。
で、取材が始まると店長は語り出した。「店にはLPが◯◯枚あって」とか「お店の雰囲気のためには音楽がどうこう」といったことを。
音楽の話には饒舌(じょうぜつ)な気配がしたので、「この人は店で流す音楽にかなり強いこだわりがあるんだな」という印象を抱いた。
したがって、先に述べたお店の紹介文を書くためには、お店の音楽について深く話を聞いておいた方が良い。お店的にも、そこがPRしたいポイントだろうし。
──と判断した私は、手始めに「お店のLPってどういったジャンルのものが中心なんですか?」と聞いてみた。すると……
\メローなヤツ/
私は「バラードってことかな?」と思った。ただイマイチ手応えがないので、眼の前にいる店長に確認してみると……
\いや、バラードじゃなくてメローなヤツ/
──私はこの返答にかなり困った。そもそも、音楽のジャンルを質問しているのだから、「ポップス」とか「レゲエ」みたいな答えが返ってくるものだと思っている。
「70年代のイギリスのロックが中心」とか「60年代のアメリカ西海岸のサーフミュージック」みたいなより具体的な返答だとさらに嬉しいが、「色々ありすぎて一概に言えないなぁ」みたいな感じでも全然構わない。そこから追加で質問すればいいだけなのだから。
「メローなヤツ」もジャンルの1つなのかもしれないが、私はそれが何か見当もつかないのである。だから追加で質問するのが難しい。なにより、グルメサイトの紹介シートにあるBGMのチェック項目には「メローなヤツ」というものは存在しないのだ。
そこにあるのは「ジャズ」「J-POP」「R&B」「クラシック」「ブルース」……といった、よく見る音楽ジャンルのみ。これらの中のどれが「メローなヤツ」に近いのだろう?
自分では分からないので、その旨を正直に店長に伝え、「すみませんが、このジャンルの中から当てはまるものを選んでもらっていいですか?」と言ってみたところ……
\俺、音楽をカテゴライズするのがイヤなんだよね/
──ちょ待てぃよ! お前も “メロウなヤツ” っていう立派なカテゴライズをしてんじゃん! なのに、どういうこと? ぶっちゃけ意味わかんねぇ。ちょ待てぃぃぃぃよぉぉおお!!
……という返しが出来るような空気では、もちろんなかった。おそらく、もし私がそれを口にしたら殴られていただろう。
何より、私は店長が本気でそう思って言っているのか、ただ私を困らせたくて言っているのか判断がつかなくなった。
後者の可能性を考えると、なんだか怒りがこみ上げてくる。その怒りに身を任せてしまったら、店のLPを全部割ってしまいそうだ。
しかも、当時私が勤めていた編集プロダクションはえげつないブラック企業だったので、いつクビになってもいいと日頃から思っていた。
いかん。後者だと考えるのは危険だ。ここは前者であると考えよう。だけど、それはそれでどうなんだ? っていう話である。本音を言うと、「こういうアーティスト気取りのボケ、マジで1番嫌いやわ」と思っていた。
そして恐らく、社会人1年目の私はそのような気持ちが態度に出ていたのだろうと思う。「メローですか……」と困った口調でつぶやきながら、眼の前にいる相手を心の底から軽蔑していた。
だからなのか、キムタクもどきも私に対して「こいつマジ何なん?」という態度を隠さなくなっていた。
お互いメローメロー言っているのに、場の空気は全くメローじゃない。ギターで頭をかち割られた客が舞台下からミュージシャンを引きずり倒そうとしているかのような、殺伐とした雰囲気である。
まさに地獄の時間。それが終わったのは、キムタクもどきの最後通告によってだった。
\話が通じないから帰ってもらっていい?/
──私は無言で席を立ち、そのまま店を出た。去り際に「ちょ待てぃよ」と言われるかもと一瞬思ったが、店長は何も言わなかった。そこだけはキムタクじゃなかった。
バーを出た私は、何もかもがどうでもよかった。このまま仕事をバックレようかとさえ思った。ただそこまでの勇気はなく、会社に着いてすぐクライアントに電話した。
「店長の音楽の話についていけないうちに揉めて、最終的に帰れと言われまして」と電話で説明して謝罪すると、担当者は同情してくれた。
吹けば飛ぶような下請けプロダクションなので、「御社には今後お仕事を発注しません」的な展開になるかもと思っていたけど、それだけは免れた形。
とりあえずひと安心。ただ、長い目で見ると自分の会社がクライアントを失って潰れようが、私がクビになろうが、どっちでも大した問題ではなかった。
それほど、当時私の所属している会社がブラックで、私自身も早く辞めようと思っていた。なんというか、そこにいても未来がないし、かといって辞めたところで未来が見えないという状況。
いま思えば、精神的にもっともヒリつく時期だった。それもあって、あのとき渋谷のバーで言われた「メローメロー」の言葉を今でも忘れられないのかもしれない。当時の私の気持ちが、あまりにもメローとはかけ離れていたから。
執筆:和才雄一郎
イラスト:稲葉翔子
Photo:RocketNews24.