本日4月17日が何の日か、皆さんはご存知だろうか。アポロ13号が地球に帰還した日であり、「THE ALFEE」の高見沢俊彦さんの誕生日でもあるのだが、実は公共職業安定所(ハローワーク)が発足したのが1947年の今日。4月17日は「ハローワークの日」なのだ。

そこで今回、長きに渡り不動の無職を続けてきた私(西本)が、「ハローワークに行かなかった理由」と題して、ハロワにまつわる思い出をお送りしたい。とはいえ、敬遠していたものの結局は「行った」のだが……なぜ避けていたのか、行ってみて何を感じたかを書いていければと思う。

・「無」の始まり

まずどうして無職になったのか、「無」の始まりについてご説明したい。こう書くとまるで物理学者がビックバン以前について語るかのようだが、そんな壮大な話では全くない。

幼い頃から、私は文章や物語を書くことが好きな人間だった。そして次第に芽生えたのが、「書くこと」を仕事にできたらという夢である。

しかし、夢に思いきり打ち込む勇気は持てずにいた私。月日は流れて大学生になり、成り行きのまま就職活動をしたが結果は振るわずじまい。そこでようやく「この際だから夢を追ってみよう」と決心がつき、持たざる者としての日々が始まった。


・ハローワークに行かなかった2つの理由

「夢を追う」と言えば聞こえは良いが、実際はニートに近い。バイトもほとんどせず、賞に応募したり小説サイトに作品を載せたり、生活の大半を執筆にささげる毎日。社会から切り離され、限りなく透明に近い無職だった。

めぼしい成果があったかと言うと、答えはノー。それでも「自分はまだやれる」と諦めきれずにいたのが、無職にもかかわらずハローワークに行かなかった理由の1つだ。

もう1つは、ハローワークに対する偏見。定職が見つからず暗い顔をした人々が集い、「オラッ、これがオマエの仕事だ馬の骨!」と担当者に言い渡される──それが私のイメージだった。雰囲気や応対について、ネガティブな想像を大いに乱舞させていたのである。


・迎えた大台

そんな先の見えない日々が変わったきっかけは、2019年1月に三十路を迎えたことだった。流れに流れた無職の月日。年齢が大台に乗り、端的に言ってすさまじく焦った。

「オマエ生計どうするんだ? ずっと親のスネかじりに精を出すのか?」と、心の中の自分に問いただされる。そしてとうとう私の重すぎた腰は上がり、腐りきった足先は彼(か)の地に向いた。行ってみれば何かが変わるかもしれないと、漠然とした思いが胸にあったのを覚えている。


・ハローワークが好きになった日

向かった先は、池袋サンシャインにあるハローワーク。そこで私は、イメージと全く異なる光景を目の当たりにする。

まず驚いたのが、壮年期あたりの年齢層がメインと思いきや、老若男女さまざまな人々であふれていたこと。正社員・契約社員に加えて、パートタイムの仕事まで募集していることも関係していたのかもしれない。その事実も実際に行って初めて知った。

そのへんにある役所の窓口のような雰囲気は、陰気な暗さとは全くの無縁。やや不安の和らいだ状態で順番を待ち、担当者のもとに通されたわけだが……驚きはさらに続いた。

つまるところ、応対してくれた方はべらぼうに優しかった。悪い意味で並外れた私の経歴にも親身になって耳を傾けてくれ、仕事に関する要望も快く笑顔で承諾。自分の将来を安心して話し合うことができた。愚かな想像をしていた自分を今でも葬り去りたい。


・ハローワークに行ってよかったと思う今日

それからどうなったかと言うと、ハローワークで紹介してもらったうちの1社から、めでたく内定の連絡をもらうことができた。しかし、大変失礼極まりない話なのだが、結局その時になってもどうしても夢を諦めきれずにいた私は、辞退の申し出をする暴挙に出る

大どんでん返しである。そんなこんなで現在の仕事に流れ着いたのが今の私だ。

では、ハローワークに行った経験は全くの無駄だったのか。答えはノーだと私は思う。

あの時ハローワークに温かく迎えてもらっていなかったら、私は途方に暮れていただろう。そして2度目の就職活動に安心して舵(かじ)を切れたからこそ、視野を広げてライターという仕事にも目を向けることができたのである。

まだまだ書き手としては未熟者だが、夢の入り口には立てたと思う。私にそうさせてくれたハローワークには、本当に感謝しかない。

もし読者の皆さんの中に、かつての私と同じように理由があって敬遠している方がいるなら、勇気を出して挑戦してみてほしい。「ハローワークに行かなかった理由」を、こうしてネタにできる日があなたにも来ることを切に願っている。

Report:西本大紀
Photo:Rocketnews24.