JR東海の「いざいざ奈良」。今回は法隆寺がピックアップされている。斑鳩町はコスモスも見どころで、10月下旬から11月上旬にかけて見頃を迎える見込みだ。

徒歩での散策に適した気候になり、まさに今が最高の訪れ時! しかし法隆寺と言えば、修学旅行の定番。今さら……? と思われる方も少なくないに違いない。

私もそう思っていたが、心底想定外の事態が発生してしまった。ここはすさまじい。視界に入る全てに、語られるべきことがありすぎる。

・西院伽藍

ということで、JR東海の提供で法隆寺へやってまいりました。こちらの図の通り、法隆寺の境内はけっこう広い。


これから見て回るのは、西院伽藍。南大門から入って正面の、五重塔、金堂、大講堂のある場所だ。ここで法隆寺のご担当者が私を出迎えてくれた。


実は私が法隆寺に来るのは今回が初めてなのだが、西院伽藍のこの風景は何度も見たことがある。


今回の取材で、私が最も楽しみにしていたのは五重塔。どこの寺でも特に注目されるのは塔だと思うが、法隆寺のそれは別格だろう。現存する世界最古のものだ。


・柱

記事のメインも五重塔で決まりだろう。そういう姿勢でいたら、ご担当者が私に注目するよう指し示したのは、こちらの中門の太い柱


ヒノキを四つ割りにして作った柱だという。四つ割りの理由は、木の芯を避けるため。「芯去り材」というもので、木材として割れたり変形しにくく、美しい木目が得られるのだそう。

形状はエンタシスだが、パルテノン神殿などのそれと異なり、法隆寺のものは下から三分の一あたりが最も太くなるスタイル。明確な理由は不明だそう。

色々と興味深い側面を持つ柱だが……すみません、この太さで四つ割りとは本当ですか。

ヒノキは令和でも建築材として需要があるが、スギほどコモンではないし、値段が高いのは皆さんもご存じだろう。理由は複数ある。その一つが成長の遅さだ。

林野庁が赤沼田国有林で、昭和末期から定期的にヒノキの成長に関する調査を行っているが、樹齢100年でやっと胸高直径が約30㎝(地表から1.2~1.3mほどの、ちょうど胸の高さでの直径)という具合である。

しかし中門の柱は、私のような成人男性が1人くらいなら余裕で隠れられるくらいの太さがある。それでいて、四つ割りにしたものだというのだから、元になったヒノキはどれほど巨大だったことか。

もちろん樹齢も尋常ならざるものだったろう。令和にそれほど高齢で巨大なヒノキがあれば、それ自体が天然記念物に指定されてもおかしくない。ここに来てまだ1本目の柱しか見ていないにもかかわらず、桁違いのスケールに眩暈がする

中門には、その様な柱が20本もあるのだからとんでもない。その柱をさらにドラマチックに感じさせるのが、数多の修繕跡だ。

巧みに傷んだ部分のみ除去し、上手いこと木材をはめ込んだり、継いだりして直している。それ等修繕跡は相当に古そうなものから、比較的新しそうなものまで様々だ。

この1300年間で何度も修繕されてきたということだろう。異なる時代の異なる技術水準を持つ宮大工たちの仕事だ。しかし一様に、可能な限りそのままの見た目で、この柱を残さんがための工夫を尽くしたのがわかる。

近くでよく見ると、形を合わせただけでなく、木目の濃淡まで近しい木材を選んでパッチワークをやってるように見える。この姿勢の集大成が、世界最古の木造建築物として法隆寺が現存しているという事実なのかもしれない。

1本目の柱からもたらされた圧倒的なドラマ性の前に、私は早くも五重塔の存在を忘れつつあった。まさかの事態である。


・回廊

その流れで次に注目したのが、この回廊


今私は、東側の回廊を北へ進み、突き当りから南を振り返った状態だ。ご担当者いわく、いま見えている部分は、飛鳥時代の建築様式なのだという。

なるほど? いやしかし、飛鳥時代からある建物なのだから、それは当然なのでは?

そこで天井を見ながら、視線を右手に移していくよう言われ……


お分かりいただけただろうか?


天井を支える梁が、明らかに異なる。飛鳥時代の梁は細くアーチを描いている。しかし私の右側に続く回廊の梁は、太く直線だ! 急に様式が変わっているぞ!!

ご担当者によると、この梁は虹梁(こうりょう)という。そして、太く直線の虹梁は平安時代のものだそう。

なんということだ。私の頭上で、回廊の建築様式が飛鳥から平安に切り替わっている。楽しくなってきたぞ!

令和の感覚だと、飛鳥時代のアーチを描く虹梁は、アーチを利用して剛性を高めてそうに見える。虹梁と屋根の間の扠首(さす 「人」の字型の部分)も、アーチにかかる上からの荷重は両端に向かうことから、力の伝達ルートに沿っていて美しい気がする。

しかし時代の進んだ平安時代の虹梁は直線になっている。扠首も「人」と梁の間に短い柱が通っている。物理学的な理由なのか、その時代におけるビジュアル面での流行なのか、変化の理由が気になるが、詳細は不明だそう。

まあ視覚的な効果に限っても、飛鳥時代の弧を描く細い虹梁は頭上が広く感じられて解放感があるのに対し、平安時代のものは力強さを感じさせ、それぞれに異なる趣がある

Google Mapなどで見て頂ければわかるが、現在の回廊は東西から講堂に繋がり、凸の字のようになっている。しかし当初の回廊はこのまま大講堂の前で閉じており、大講堂は回廊の外にあったそう。


当然、鐘楼と、反対側に建つ経蔵もまた、回廊の外にあったと考えられる。

修繕こそされど、1300年前から全く同じように建っているのだと思っていた。実は法隆寺は時代と共に、存外その姿を変えていたらしい。

そして、よく見ると変化の痕跡のようなものが見られる箇所もあり、それが想像を掻き立てる。

おや、ちょっと待ってください。あれは何です? 回廊のあの柱、横に太い梁が組み込まれていたような穴がありますよ? もしや……


……


……


……


……


そんな調子で、何かを見つけては何かを問うという遅々とした歩みが続いた。柱と回廊の後は、もちろん金堂と五重塔についてもご案内頂き、メモしたり録音したりして帰って来たのだが……失礼ながら、五重塔と金堂については、事実として教わった情報ばかり残っており、私がそこで何を感じたかということは曖昧になっていた

理由は明確で、時代ごとに移り変わる様を脳内で3D化しながら歩いていたら、おおむね柱と回廊に関する情報で私の想像力が限界を迎えたからだ

金堂と五重塔に関するトリビアみたいなものはたっぷり仕入れられたのだが、それだけ書き残してもWikipediaと何も変わらないのでやめておこう。というか、そこは現地で実際に解説を受けるべきだと思う。

さて、「いざいざ奈良」法隆寺編のTVCMメイキング動画にて、鈴木亮平氏が “興味をもって見るか、そうじゃないかで全然違うんだな” と述べている。

これは世のあらゆるものに対し、あてはまる話である。しかし法隆寺は規格外だ。そんなに興味がない状態からでも、興味を湧き立たせる力がある。私も実際、興味など無かった柱と回廊だけで面白すぎて、脳が五重塔にたどり着けなかったのだから。

全体からすればごく一部の西院伽藍だけこれだ。真剣に全体を見て回ったら、1週間くらいかかるのではないか? いや、もっとかもしれない。なぜなら、後になってからさらに気になる何かしらが湧き出てくるからだ。

参考リンク:法隆寺いざいざ奈良
執筆・撮影:江川資具
Photo:法隆寺

▼TVCMメイキング

▼拝観香華料。西院伽藍、大宝蔵院、東院伽藍の3か所の料金。

▼象。エレファント。ご担当者から “何の動物に見えますか?” と問われ “バクっぽく見えます” と答えた私。リアルな象とはだいぶ異なる姿ゆえ “見たことが無いまま、空想で作ったんじゃないですか?” などと続けたのだが、そういう空想を広げられるポイントが多いのも魅力ではないかと感じた。

▼南大門を内側から。1438年に再建されたもので国宝。三間一戸と、四間二戸の中門と比して簡素。それが当時のスタイルだそう。また、法隆寺は屋根の軒反り(屋根の端の反り上がり)も興味深いのだという。軒反り自体は寺では一般的だが、時代によって反り方が異なるのだとか。

▼当然、金堂と五重塔についても、一通りご説明頂いた。特に金堂には面白い話が多かった。例えば、現在1階部分にある裳階(1階の屋根の下の小さい屋根のような部分)が創建当初は無かったという話や、昭和24年の火事の影響などは興味深いものだった。内部は撮影禁止ゆえ、是非、現地で楽しんで頂きたい。何かのプロジェクトで創建当初から昭和の大修理まで、判明している限りの異なる姿を全てCG化して見比べられるようになったら、とても面白いのではないかなどと思った。

元禄期につけられたとされる龍。当初の裳階も龍の棒も無かった時の姿は、なかなかシュッとしてそうだ。今のがっしりした姿とは抱くイメージが異なるだろう。

▼五重塔の九輪。諸説ある有名な4本の鎌。鎌も良いが、露盤の葵の御紋にも注目したい。葵紋は西院伽藍中央付近の灯篭にも入っている。灯篭は桂昌院(綱吉の母)が寄進したもの。元禄から宝永にかけて行われた修理で、江戸幕府の援助を受けたためだろう。歴史が見える。