少し前から気になっている人がいる。気になるといっても女性ではなく男性、それも若いメンズではなく、どちらかといえばオジサンだ。これまで目撃できたのはたったの2回、どちらも電車の中だった。それも時間は数十秒。なので顔は覚えていない。
しかし彼には、一度でも見たら絶対に忘れられないであろうインパクトある芸風と、真の目的がイマイチよくわからないミステリアスさを兼ね備えていた。そんな彼のことを、私(羽鳥)は心の中で勝手に「9条さん」と呼んでいる。
・いつも出会いは電車内
9条さんを最初に見たのは、2016年の10月。都心へと向かう電車の中だった。ギュウギュウではないが、わりと満員。私はドア横のバー、すなわち角っこの「安全地帯」の位置をキープ。そして、なんとなく7人席が向かい合うゾーンに目をやると……
胸元に青いプラカードを抱えた男性が、片手で吊革を握りながら立っていた。よく見ると、そのプラカードには「9条壊すな!」と謎のメッセージが書かれている。なんだか、どっかで見たことのあるプラカード。だが……問題なのはそこではない。
9条さんの「プラカード上」と「プラカード下」が完全に別人。いいや、なんと言葉で表現すれば良いのだろう。言わば……「私はプラカードなんて知らないし、持っていません顔」をしつつ、しっかりと胸元のプラカードを「誰かに見せている」のだ。
はたして彼は、超スピードで進む電車の中から誰に対して「9条壊すな!」を見せようとしているのだろうか。もしかして、目の前に座る乗客に対してのアッピール? もしもそうだと仮定して、私が9条さんの対面に座る乗客だと想像してみると──
“視線の約50センチ先には、青バックに白文字で「9条壊すな!」のプラカード。耐えきれずに見上げたら、9条さんが素知らぬ顔でそっぽを向いている……”
──これはつらい。この状況は、深刻にツラい。決してバカにしているわけではなく、いろんな意味でキビシすぎる。逃げ場がない。きっと私なら耐えられない。いろいろ我慢し過ぎて、私の腹筋が壊れてしまうかもしれない。
だがしかし、ふと冷静に考えてみると、そんな至近距離にいる「たった1人」に対して9条さんがアッピールするだろうか? と思ったりもする。もしも目の前にいる乗客が安倍首相だったとしたらやりかねないが、私が見た限り、安倍首相ではなかった。
となると……彼の真の目的は目の前の乗客ではなく、もっと遠くにいる「不特定多数の人々に向けてのアッピールなのでは?」との仮説が立つ。想像してみると──
“猛スピードで移動する電車を見ていたら、「9条壊すな!」との謎メッセージも猛スピードで移動していった……”
──となるのだが、そのメッセージを確実に確認できるのは、おそらく「ハンパない動体視力のボクサー」か「撮り鉄」(が撮影した画像で確認)だけだろう。
いいや、たとえ確実に確認できなくとも「サブリミナルでアッピール」という可能性も捨てきれないのだが、いかんせん効果は薄いと思われる。謎は深まるばかりだ。
ちなみに2回目の目撃は、もっとスピーディーな展開だった。電車がホームに到着し、たくさんの乗客が降りてき……たと思ったら、その中に9条さんが、あの「胸元プラカード」の体制を維持したままドアからズンズンとホームに出てきた……のである。
彼はそのまま姿勢良く、まったくブレない表情で、プラカードを直角90度の角度で維持したまま、違う路線のホーム方向へ、左に曲がりながら消えていった。
なんというか、プロ。ものすごいプロ感。プロフェッショナル。そこに「恥ずかしい」だとか「変な人だと思われているかも」という不安は、一切ない。ただひたすら、無我の境地で「プラカード芸」を極めようとする男が、そこにはいるのだ。
パッと見だけだと、その目的がイマイチよくわからない9条さん。だがしかし、ちゃんと私の心には「プロの仕事をしなさい」という事と、「意表をついて人を笑わせなさい」という彼のメッセージが届いている。今この瞬間も “次回の9条さん” を想像してワクワクしている。もしかしたら9条さんは、プロのプラカード芸人なのかもしれない。