誰にでも特別な思い入れのある品というのはあるものだ。例えば、普段スーパーで買う醤油にしても、このメーカーのこれを買うと決めている人は多いと思う。実家がそれだったから同じものを買い続けてるとかね。一方で、手が出ないからこその思い入れというのもある。
渋谷に引っ越してきたばかりの私(中澤)。先日、料理でもしようと、スーパーに行って調味料を物色していたところ、叙々苑の「焼肉のたれ」が売っていた。これは……。思わず手に取った私はしばらく固まってしまった。そう、あれは18年ほど前のこと──
・極貧
バンドでプロになりたくて上京してきた私は死ぬほど金がなかった。東京出身者はピンと来ないかもしれないが、関東圏以外からの上京というのはマジで大変。
特に、学校や仕事などのあてもなく出てきた大変さというのは桁が違った。貧乏すぎて豆腐を食べるだけでもギリだったことを覚えている。っていうか、そこまで切り詰めても電気・ガス・水道が止まっていた。ご存知だろうか? 電気が止まると部屋がめっちゃ静かになることを。意外と冷蔵庫とかの音って大きいのである。
・謎の安らぎ
その静寂(しじま)には不思議と安らぎがあった。床に散らかった服も何も見えなくなって、都会の中にいながら何も聞こえない。それはまるで慌ただしい世界から切り離されたようで、ベッドに寝転がりながら星が見えるんじゃないかと思ったことを覚えている。
その状態から電気が止まった時用のロウソクに火をつけると、光がとても優しく感じた。俺を見放さないのはお前だけだよ。貧乏すぎて文明を憎み始めていた。
・そんなバンドマンが集まった時
異常だと思うだろうか? しかし、同じ界隈にいたバンドマンではこういう人は珍しくなかったように思う。まともに生活しながらバンドができる人ってかなり優秀な人というイメージだった。まあ、ネジがぶっ飛んでいた私から見ればなんだけども。
前置きが長くなってしまったが、当時、音楽仲間が集まれば貧乏自慢が始まることも少なくなくて、ある日の打ち上げで「オススメの食材」の話になった。
オススメの食材と言っても全員が貧乏だからウマイとかは関係ない。いかに一食を安く済ませるかがテーマである。私のデッキは当然豆腐。当時、近所の業務用スーパーで50円くらいで豆腐一丁が売っていたので醤油をかけて1食50円というものだ。
・衝撃の安さ
ただ、やっぱりもうちょい食べたい。そんな時に、それを超えてきたのが、同じく貧乏生活を送っていた長谷川くん(仮名)であった。食材はもやし。近所の業務用スーパーで大量に入っているのが10円で売っているらしい。なっ!? いくらなんでも安すぎだろ。
しかし、もやしを炒めるだけではすぐに飽きるから、叙々苑の「焼肉のたれ」をかけて炒めることで激ウマになるのだと言う。長谷川くんいわく、10円で叙々苑に片足突っ込めるレシピとのこと。
・買えなかった
当時、私は叙々苑自体を知らなかったのだが、何やら凄いらしい。そこで叙々苑の「焼肉のたれ」を買いに行ったところ、エバラ焼肉のたれの3倍くらいの価格がする。
長谷川くんいわく、「ちょっと高いけど、それを一個買ったら、しばらくは10円のもやしを買うだけで良くなるため元は取れる」とのことであった。そのサステナビリティーは確かに熱い。なにせ、一気に食っていけるようになる見込みなんてないんだから。だがしかし、私は買えなかった。
理屈ではない。金が無さすぎてエバラ焼肉のたれの3倍の金を一気に払う決心がつかないのだ。大金すぎる……!
・バカな!?
それ以来、私の中では叙々苑の焼肉のたれが高級品に分類された。もはや怖い。人には買えないものもあるのだ。それを買ってしまうなんてつくづく長谷川くんは豪胆な男であったと言えるだろう。と思いきや……
改めて見ると税込699円であった。
買えるゥゥゥウウウ!
そこで購入してみた。肉にかけて食べてみたところ、ソースの甘みが肉の旨みを引き出す。肉がワンランク上がったような錯覚すら覚える脂との調和。ウマイ。
・長谷川くんはもう
また、もやしを購入して長谷川くんの言っていた貧乏飯レシピを試してみたところ、甘みからか焼きそばみたいな味に。正直言うと、叙々苑のたれのポテンシャルを活かせているとは言い難い。ただ、どこか懐かしさを覚えた。やっと会えたね。
人生はマンガみたいにはいかない。その味は甘かったけど、同時にほろ苦さを感じずにはいられなかった。自分を見つめ直すと生活できるようにはなったけど、あの時とあまり変わってないような気もする。でも、長谷川くんは……長谷川くんはもう……!
就職して普通に出世してるから。うわああああああああ! 社会に認められてるゥゥゥーーー!! 僕もちゃんとした大人になりたかったァァァアアア!! 過去はほろ苦いけど、今は普通に苦いのでありました。おわり。
執筆:中澤星児
Photo:Rocketnews24.