
誰しもひとつやふたつ、「あれは一体なんだったんだろう?」と思うような子供の頃の奇妙な思い出があると思う。たとえるならば、芥川龍之介の『トロッコ』のような、トラウマ的な体験とでもいうか……。
私は幼い頃、父親に文房具店に置き去りにされたことがある。もうすぐ40歳になる今になっても、軽くトラウマとして心に残っているのだが、理由を聞けないまま、父は数年前に亡くなってしまった。
父親はなぜ、私を文房具店に置き去りにしたのか? 不在の間、父は何をしていたのか? その謎を調べるために、もう一度その文房具店を探してみた結果……意外なことがわかったのである。
・トラウマの横浜
私は長崎出身なのだが、幼い頃のほんの一時期だけ父の仕事の関係で横浜の中区にいた。置き去り事件はそのときに起こった。母親と過ごすことが多かったのだが、ある日の昼下がり、珍しく父親に連れられてふたりだけで外出した。
うちの父は典型的な昭和の男で、爆弾気質。子供ながらに、母がいない二人きりの外出というだけでめちゃくちゃ不安だった。なじみのない横浜の街をずんずん歩いていく父。どこに行くか聞いても答えてくれない。
その街はのどかな長崎に比べると荒れた雰囲気で、なんだか街全体がグレーがかってみえた。客がいない小さな古い文具店に入ると「マリコ、ここでなんか好きな物ば買え」と父は言った。
子供が好きなキャラクター雑貨やぬりえがある文具店と違い、事務用品しか置いていないような店である。ほしいものなんて何もないが、父親が怖かったので1000枚入りの小さな千代紙セットを買ってもらった。
千代紙を買い与えると父は「ここで待っとけ」とだけ言い残してどこかに消えた。薄暗くガランとした店内で、店主の女性とふたりきりで残され「お父さんいつ帰ってくるの?」と聞いても、生返事が返ってくるのみ。「父に捨てられたんじゃないか」と気が気でないまま、ひたすら千代紙の柄を見て過ごしたのを覚えている。
どれくらい経ったかわからないが、千代紙の柄もとっくに見飽きた頃、ようやく父が戻ってきた。子供にとっては永遠のような時間である。「お父さん、どこ行っとったと?」と聞いても父は不機嫌そうでやはり無言のまま。
帰り道はことさらに怖く、私は荒れた街で生まれてはじめて浮浪者を見て、びっくりして父親の影に隠れてしまった。すると父親に「ああいう人を差別したらいかん!!!!!!」と烈火のごとく怒られ、私は置き去りの恐怖もあって、ついに号泣した……。
・あの街はどこだったのか
何十年も忘れられない、謎の思い出。あのうらぶれた街は横浜のどこだったのか……。あの文具店にもう一度行ってみれば、父が何をしていたのか分かるのではないか。
母に当時のことを聞くと、なんと当時の日記が出てきた。
なんでも、そのころ祖父が亡くなって、父が会社を継いで長崎に帰ることになったので、横浜のマンションを引き払うことになり、片付けをしていたとのこと。
・横浜滞在は1985年 5月25日(土)から1週間
・マンションの場所は中区長者町
・伊勢佐木モールが近かった
・飲み屋街の野毛も近かったのでそのあたりではないか
ということだった。母が家の片付けをするとき、幼い私がいると邪魔だからと父が私を連れて出かけた記憶があるという。ありがたいことに、今はインターネットでマップを見ながら歩くことができる。伊勢佐木長者町駅へと向かい、グーグルマップで出てきた近くの文具店に足を運ぶことに。近隣には3軒の文具店があることがわかった。
・伊勢佐木長者町駅から野毛方面に歩く
伊勢佐木長者町駅の近くは、明るい並木道が続いていた。
まず最初は伊勢佐木モールの小さな文具店へ。
事務用品中心だが、記憶にあるレイアウトと違う。そもそも父と歩いたのはこんな賑やかで明るい商店街ではない。道は開けていたが歩道は狭く、街が暗かったのだ。
ということは野毛か……。長者橋を渡り、野毛方面へ向かうことに。
橋を渡ると日ノ出町駅の高架が見えた。この高架、見覚えがある! 幼い私はこの電車がごうごうと音を立てる暗い高架下がひどく怖かったのだ!
あのトラウマの地は、やはり野毛だったのか。野毛の歓楽街の中に、古い文具店が2軒あるのでさっそく現場へと向かう。
一軒はすでに閉店、もう一軒は店休日のようで開いていなかった。
外観しか見ることはできないが、古さ具合といい、記憶の中の文具店に似ている……。
ついに見つけたかと思ったが、どことなく違和感がある。私の記憶では、店は車道に面していて、道がもう少し広かったのだ。それに、さすがにうちの父親がクレイジーだからといって、こんな飲み屋街のど真ん中に2〜3歳の子供を置いていくだろうか?
・大通りに出てみる
野毛の歓楽街を抜けて、車が通る道に出てみる。なんだか、この通りには見覚えがある。しばらく歩くと、成人向けの古い映画館があった。私が浮浪者の人から隠れて怒られたのは、たしか映画館の近くだった。
人と人がすれ違うとき歩道の幅から察するに、たぶん現場はここだろう。
再開発などもあって通りはきれいになっているが、近くにはストリップ劇場や、ちょっぴりいかがわしい店も残っている。記憶の中の灰色の街と、通りが重なる。
ということは、置いてけぼりにされた文具店はここから近いはずだ!
・謎が解けた瞬間
……と、近くを歩いていると、ある建物を発見して私はハッとした。
「ウインズ横浜」
競馬の場外馬券場である。
──この瞬間、すべての謎が解けた。
父の会社には蹄鉄と、競馬のレースの絵画、馬の像が飾ってあった。
父は競馬ファンで、母もときおり場外馬券場に連れて行かれたことがあったと言っていたのだ。
・置いてけぼりにされたのは昼下がり
・日付は5月25日前後
・父は帰りに不機嫌だった
これらの条件から察するに、父は馬券を買いに行っていたのだ。調べたところ、1985年の日本ダービーは5月26日であった。そして競馬のメインレースは15時30分ごろ開催される。1985年は場外馬券場がウインズと改称してクリーンになる前。まだオグリキャップも武豊騎手もデビューしていない。
場外馬券場は、まだまだ荒くれ者たちの集う鉄火場である。そんな場所に2歳の子供を連れていくわけにはいかないだろう。
競馬ファンにとってダービーは特別な日だ。父はダービーの馬券を買い、レース中継を見るために近くの文具店に一時的に私を預けていったのだ! いま、店に子供を置いていったりしたら大ごとだが、昭和ならあってもおかしくない。
そして、帰りに不機嫌だった理由は……馬券をはずしたからであろう。
・では、あの文具店は?
そう離れた場所に置いていくとは考えづらい。しかし、近くに文具店が見つからない。イチかバチかで、ウインズ横浜のすぐそばにある古書店に入って、この近くにかつて文具店がなかったか聞いてみることにした。
答えてくれたのはこの書店に嫁いでから50年以上になるといういうお婆さん。なんでも、この古書店の斜向いに、かつて前川文房具店という小さな店があったことがわかった。
今、新しいマンションを建てようと工事をしているが、昔は商店が3つほどならび、そのひとつに文具店があったそうだ。場所は現・ウインズ横浜のすぐそばである。
文具店は複雑な事情があって、旦那さんが店に立てなくなり、奥さんが一人で店を切り盛りしていたとのことだった。薄暗い雰囲気、女性の店主、車通りに面した店、すべての条件が記憶と一致する。
文具店は数十年前に近隣のビルに移転したが、そちらも閉店し、店主の女性がいまどうしているかも分からないということだった。
・再び歩いてみる
すべての謎がとけたあと、文具店からウインズ横浜、成年映画館の前を通り、かつて住んでいたという長者町のマンションの方まで歩いてみた。記憶の中よりも街はすっかりきれいになっているが、ところどころに昭和の名残を感じる。まるでタイムスリップしたみたいに、軍歌を歌いながら歩く酔っぱらいがいた。父の教えのとおり、そしらぬ顔ですれ違う。
あの恐ろしい思い出も、理由が分かると、懐かしい思い出になるから不思議である。あれから数十年が経ち、奇しくも私も競馬ファンになった。馬券をはずしているところは、父親ゆずりである。父とはいつも何を話していいか分からなかったが、今なら競馬の話ができるのになあと思う。
みなさんも、子供の頃に住んでいた場所や、不思議に思っていた場所を訪ねてみてはどうだろうか、大人の目線でもういちど振り返ると、意外な発見があるかもしれない。
執筆:御花畑マリコ
Photo:RocketNews24.
▼ちなみにこの古書店は高橋一生主演の『岸辺露伴は動かない』のロケ地になったとのこと
御花畑マリコ



















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