世界的に活躍するトランぺッターの日野皓正氏が、男子中学生にビンタをしたことが週刊誌やワイドショーで取り上げられている。確かに、体罰は良いことではない。

しかしその前後を詳しく伝えずに、ビンタの事実だけを切り取って、まるで “理不尽な体罰” のように伝えるのは、いかがなものだろうか? 日野氏もさることながら、生徒の気持ちはどうなるのだろう。置き去りにされてはいないだろうか?

もしも自分が生徒の立場だったら。そんな疑問が浮かんだので、私(佐藤)は自らの過去を振り返って考えてみた。高校1年生の時に担任の教師に目一杯ビンタを食らったことがある。状況は異なるが、生徒の気持ちを推しはかる手がかりになるではないか。そう思い振り返ってみた。

・カンニングでビンタ

私が教師に殴られたのは、テストで「カンニング」の事実が発覚したからだ。正確には、私がカンニングしたのではなく、私が他の生徒に答えを教えていたのだ。当時の私は気が弱く、断るということができなかった。ある同級生からテスト前に「答えを回して欲しい」と頼まれ、断ることなくその申し出を受けていたのだ。

・テスト中に答えを書いたメモを回す

そしてテスト中に、メモの切れ端に答えを書き、隣の席の彼に教えていた。かなり緊張しながら、試験官の先生の目を盗んで、彼にメモを何度か渡した。幸いと言っていいのか、テスト時間は何事もなく終了。ひと安心していたら、終了後に彼が職員室に呼び出された。

・職員室に呼び出し

呼び出しの理由はひとつしかない。バレたのか? そう思っていたら案の定、私も職員室に呼び出されてしまった。職員室に向かう途中で、私は震えが止まらなかった。「なぜバレた?」「どこで見られていた?」「もっとうまいやり方があったかも……」、そんな思いが頭を巡る。

「いや待てよ、そもそも断るべきじゃなかったのか? でも断って嫌われたりしたら、クラスでの立場がないし……」

どこかで気持ちの折り合いをつけて、これは仕方のないことだったという結論にたどり着こうとする。だが、バレた以上、合理的な結論には至らなかった。「なぜこうなった?」という疑問が頭をグルグル巡って、その回転に合わせるように身体が小刻みに揺れる。職員室に近づくにつれて、その震えが激しくなるようだ。

・「そこまで怒らせた」自分

職員室の扉を開けると、すぐそこに担任がいて、私が中に入るや否や、渾身の力でビンタされた。今に至る人生を振り返っても、あんなに強くビンタされたことはないかもしれない。めまいがするように激しく頭を揺さぶられながら、担任の顔を見ると、私と違った理由でうち震えている。怒りの鼓動が内側から担任を揺り動かして見えた。

「何をやったかわかってるのか?」

そんな風に問われたと思う。私はそこでトンでもないことをしたのか、そう理解して涙を流した。私に対する処罰は反省文4枚で済んだのだが、同級生は停学処分になってしまった。16歳の初夏、高校進学後の最初の大きな思い出である。

もしも私が、同級生の申し出を断っていたら、同級生は停学処分にならずに済んだ。罰は軽かったけど、私の罪の方が重いと、今では思う。担任が渾身のビンタを私に食らわせたことも理解できるし、「そこまで担任を怒らせた」自分が悪いとわかる。何より、自分のあやまちと向き合ってくれたことに、感謝する気持ちもある。

・第三者が騒いだとしたら

もしもあの当時、そのビンタについて外野が騒いだらどうだっただろうか?

見知らぬ第三者が、『○○先生(担任)は佐藤君にビンタしました。カンニングを手助けしたらしいけど、ビンタをするとは!?』みたいに、まるでネタのように騒がれたら、全然快く思えない。

むしろ、「あんたには関係ないだろ」と言いたくなる。『○○先生は佐藤君にビンタをしたから、教員を辞めるべき』などと騒ぎ立てられたとしたら、「ちょっと待ってくれ」と思うに違いない。

・生徒が考えること

体罰は良いことではない。日野氏は他に伝える術を選ぶべきだったとは思う。だが大切なのは、生徒が “どうして怒られたのか?” そしてこれから “怒られたことをどう反省して、次に生かすか?” ではないのだろうか。

すでに本人の気持ちの整理がついているとしたら、それを第三者が蒸し返す必要など一切ない。「○○砲」に生徒の心まで打ち砕く権利はない。

執筆:佐藤英典
Photo:Rocketnews24