言うまでもないことですが、人間は誰でもカッコをつけて生きています。そしてこれまた言うまでもないことですが、それ自体は決して悪いことではありません。むしろ、“カッコつける意識” が完全にゼロになってしまったら大変な事態になることは、みなさんご存知でしょう。

しかしながら、中にはその意識をあまりにも極端に否定する人がいます。まるで、自分は “カッコつけたい気持ち” と完全に無縁で生きているかのように。しかし私は、このような態度こそ もっともタチが悪いカッコのつけ方だと思うのです。なぜなら……

簡単に言うと、自分が損をするからです。もう少し具体的に言うならば、知らず知らずのうちにメンドクサイ奴になっていると言いましょうか。もしくは、他人がカッコつけていることに対して寛容さを失ってしまうとも言えるかもしれません。

そもそもの話、「俺は全然カッコつけてないから」というのはそういうスタイルのカッコのつけ方でしかありません。高〜いスーツを着て、高級腕時計をジャラジャラ鳴らしながら女性の肩に手を回し、もう片方の手でワイングラスを揺らすことだけがカッコつけではないのです。

庶民派を気取るのもカッコつけ方の1つですし、ボロボロの服を着て野宿しながら旅行するのもカッコつけ方の1つなのです。その証拠に、自分で庶民派だと高らかに宣言している人は「そういう風に見られたい」という意識が働いていませんか? あえて貧乏なスタイルで旅行する人だって同様です。

それは、高いスーツ派の「金持っててワインとかに詳しくてスマートな会話する奴と思われたい」という意識と比べて、高尚なものと言えるでしょうか? 少なくとも、私には同じに見えます。つまり、着たい “服” の種類が違うだけで、“服” を求めていること自体は全く同じだと思うのです。


もちろん、冒頭で述べたように “服” を求めることはごく当たり前のことです。ただ、それを否定してしまうから面倒くさいことになるのです。どれだけ面倒くさいのか、私の例で説明しましょう。

・約20年前の話

散々こんなことを言っておきながらアレですが、かつては私自身がまさに「俺は全然カッコつけてない」と思っている自称・自然体人間でした。特に20歳前後の頃は、「他人の目線から完全に自由なのは自分くらいだ」と本気で考えていたように思います。

正直に言いますと、上で述べた「あえてボロボロの服を着て野宿しながら旅行」とかも実際にやっていました。


ちなみに、私はインドで買ったクルタ(インドやパキスタンで男性がよく着てる上着)を身に着けて大学に通っていた時期もあったのですが、キャンパス内を歩きながら「ルールにとらわれない “超自由人” みたいに見られてぇ〜〜〜」という意識がビンビンに働いていたことは言うまでもありません。

自然体でも何でもないのに、自分だけは自然体だと思っている。他人の視線を気にしていないと思っていながら、誰よりも他人の視線を気にしている。あまりにも痛いヤツであることは認めざるを得ないでしょう。

まぁとにかくそんな状態ですから、私は危険な国に平気で行ける人を尊敬し、逆にリスクの低い国に旅行して「買い物たのしかったー」みたいな話をしている人を軽蔑していました。それどころか、例えばサークル内の恋愛がどうとか、就職活動がどうとか、いわゆる “普通の悩み” を話す人を下に見ていたのです。

「楽しみ方・生き方は人ぞれぞれじゃん。っていうか、普通のことを普通にするだけでも大変じゃん」的な発想が、当時の自分には決定的に欠けていたのですね。結果的に、人間関係を広げるという意味で、すごくもったいないことをしたように思います。そして同時に、周りの人に対して申し訳ないことも……。

悔やんでも悔やみきれませんが、その根本的な原因は、私が “カッコつける意識” を極端に否定しすぎたことにあるように思うのです。だからみなさんも、この「不思議な悪魔」にお気をつけて。そいつに取り憑かれてしまうと、本当に面倒くさいことになりますよ。

執筆:和才雄一郎
Photo:RocketNews24.