
実は、目が見えなくなって初めて困った言葉だった。
視覚障害者4年生になり、今ではもちろん慣れたもんだが
「あちらです」「そちらです」「こちらです」という言葉と向き合っている毎日だ。
・「あちらです」との普段の向き合い方
普段はどこで言われても何とも思わない。
なぜなら、見えていた頃の私も同じことを言っていたからだ。
使う側の気持ちは分かる。悪気なんてないのも分かる。
だから友達に言われても「右? 左? まっすぐ?」と普通に聞き返す。
今ではタクシーに乗って目的地に到着したら「建物の入り口はこの方向で合ってますか?」と、自分で指を向け確認する。
「もうちょい右で」と言われれば、ゆっくりと右にズラしていき「そこです」の合図で止める。
「わかりました。ありがとうございます」
完全に共同作業である。
・神みたいな案内に出会うこともある
そうした中、たまに “神” みたいな人に出会うこともある。
クロックポジションで教えてくれる人だ。
「3時方向です」「10時にあります」
方向や物の位置を時計の文字盤のように、私から見て正面を12時、右を3時、左を9時で伝えてくれる。
この一言で、頭の中に一瞬で地図ができる。位置も角度も分かる。
場合によっては、距離までイメージできる。
この情報が分かるだけで本当にメンタルHPが減らなくて済む。
そして何より、理解しようとしてくれている感じが、ものすごく伝わる。
実家近くのコンビニの店員さんもそうだ。
「レジはこちら11時の方向です。間に障害物はないですよ」
半年に一度行く、お寿司の食べ放題の店の若い店員さんもそう。
「テーブルの上、向かって2時にお飲み物、6時にお通し、その上にお寿司のお皿を置いております」
食事の場合は、テーブルを時計に見立て、私から見て手前を6時にしてくれるのが一番イメージしやすいのだ。
病院によっては、受付の方でも「肩をどうぞ」と
右肩に私の左手を添えさせてもらいながら
「2時の方向に歩きますね」
目的の所まで案内してくれることもある。
ありがたいなあ、と毎回思う。
・眼科だけはどうしても甘えてしまう
なのに本当に不思議なのだが、眼科でだけ私は少しおかしくなる。
入口を入って受付を探していると、遠くから声が飛んでくる。
「受付をお願いします」「受付はこちらです」
方向はなんとなく分かる。でも途中の状況は分からない。
椅子ある? 人いる? 柱は? ぶつからない?
私はかなり緊張しながら歩いている。
そして心の中の悪い自分が出てくる。
(……眼科ですよね)と
本当にすみません。
検査室へ向かうときも同じだ。
「そちらの検査室へどうぞ」
普段ならすぐ聞く。
「右ですか? 左ですか?」
でもなぜか一回飲み込む。
ぐっと我慢して、ちょっとしてからやっぱり聞く。
「右ですか? 左ですか?」
病院の中は静かだ。人もあまり動いていない。
だから白杖が何にも当たらないと、逆に怖い。
情報が、ない。
頭の中だけが忙しい……。
視界はいつも通り暇なのに……。
分かっている。患者さんのほとんどは見えている。
私はレアキャラだ。
忙しいのも分かる。頭では全部理解している。
それでも心のどこかで、小さい私が言う。
「せめて眼科だけは……!」と。
完全にワガママだ。
そして診察が終わり、外に出る。
今度は家まで帰ることに集中する。
車、段差、信号、別のゲームが始まる。
だから、さっきまでのモヤっとはもう忘れている。その繰り返しだ。
そして私は、またどこかで「そちらです」と言われる。
執筆:緑(RYOKU)
イラスト:Gemini