人は誰もが死ぬ。祖母が死んだ時、中学生だった私(中澤)はこう思った。「人が死んだ後って嵐みたいだ」と。普段会わない親戚が突然やって来て、実感が湧かないまま、あわただしくお通夜、お葬式が過ぎ去り後には何も残らない。
そんな時、葬儀屋さんがめちゃくちゃ心強い存在であることは、身内が死んだことがある人なら分かると思う。仕事として人の死と接する葬儀屋さん。ゆえに……なのか。東日本大震災時の葬儀屋さんの話がヤバかった。
・2回の大震災
11年経ってもその爪痕を残す未曾有の大災害・東日本大震災。東京在住の私ですら忘れられない記憶になっているのだから歴史に残る大地震と言えるだろう。
ちなみに、私は阪神・淡路大震災の時大阪に住んでいたので、歴史に残る大地震は2回体験している。そのためか、東北の被災者の話を聞くと、阪神・淡路大震災の時のことを思い出し、他人事とは思えない気持ちになる。断水、停電、なくなって分かるインフラの重要性。
・3分の2が壊滅した街の葬儀屋
そういった混乱の中で、葬儀屋さんはマジでヤバイことになっていたのだとか。当時の話を聞かせてくれたのは東北出身のSさんである。
Sさん「私の町は地震と津波で3分の2くらいが壊滅していて、ギリギリ残った3分の1もライフラインが機能しない状態でした。私も葬儀場でシャワーを浴びたりして。特に、葬儀屋だった父は、ほぼボランティア状態で、1カ月以上家に帰ってこない感じでした」
・家に帰ってこなかったのにはもう1つの理由が
状況が状況だけに、職業が職業だけにそういうこともあるのかもしれませんが、1カ月間仕事で家に帰れないというのはゾッとする話ですね。
Sさん「ですよね。でも、あとから父に当時のことを聞いたら、帰ってこなかったことにはもう1つ理由があったんです」
──え?
Sさん「父が言うには……」
──言うには……?
Sさん「ナニカがいっぱい憑いてるから家に持ち帰るのが嫌だったって」
──ゾッ……。
Sさん「父に霊感があるのかはちょっとよく分からないんですけど、体の重さの質が明らかに違ったみたいで。不思議ですよね」
──とのこと。やっぱり本当にあるんですかね、そういう世界。
・現在
当時、女子高生だったというSさん。その後、カフェパティシエの専門学校を卒業し、20歳で上京、現在はカフェでバリスタとして働いている。東京でバリスタになろうと思ったキッカケを聞いてみると……
Sさん「子供の頃からパティシエになるのが夢で、震災後すぐカフェパティシエの専門学校に入りました。でも、実際やってみると、パティシエが向いてないように感じて。
かわりに、ラテアートの授業が楽しくてコーヒーが気になり始めたんですね。そこで東京に行くならバリスタに挑戦してみようと。そこからはコーヒーひと筋ですね」
──もともとは、母が毎朝飲んでいて、味よりもコーヒーを飲んでいる時間が好きだったというSさん。バリスタとして目指しているのは、そんな時間をお客さんに提供することなのだそうだ。
営みを続けること。それ自体が希望であり光なのかもしれない。11年後のSさんの笑顔にそう感じずにはいられなかった。
執筆:中澤星児
Photo:Rocketnews24.