本日8月15日は終戦記念日。2020年で戦後75年が経った。今年38歳である私(中澤)は、生まれた時点で戦後37年が経過しており、親も戦争の世代ではない。しかし、私にはこの時期になると思い出すことがある。それは、祖母の部屋に飾られていた1枚の白黒写真についてだ。

・気難しく気の強い祖母

大阪で生まれた私。田舎の庭付き一戸建てで、両親と兄、あと母方の祖母と父方の祖父が一緒に暮らしている6人家族で、特に金持ちだとは思わなかったが、生活苦を感じたこともないため中流の家庭だったのだと思う。

両親は共働きだったため、私の世話をしてくれるのはもっぱら祖母だった。熊本出身の祖母は、戦前、女学校に通いたくて養女になって大阪に来たという好学の士。「これからは学問の時代だ」と口癖のように言っていた。

そのため、教育的にも厳しかったが、その分世話焼きでもあったため、私がおばあちゃんっ子になったのは自然な流れと言える。子供の頃、分からないことは大体祖母に聞いていた。

そして、私は、いらんことを言って祖母をよく激怒させた。今から考えると、私もアホだったが、子供相手にガチギレする祖母も気難しい人物だったと思う。そんな祖母の部屋には白黒写真が2枚飾られていた。

・2枚の白黒写真

1枚は亡くなった旦那(私からすると祖父)というのはすぐに分かった。年齢的に。一方、もう1枚の白黒写真はもっと若い人だ。おばあちゃん、こっちの写真誰なん?

聞いてみたところ、祖母は「おばあちゃんのお兄ちゃんや。カッコええやろ?」と答えて照れくさそうに笑った。それ以上のことを聞いたかは遠い記憶すぎて覚えていないのだが、普段は厳しい祖母がその時見せた優しい目は忘れられない

・数少ない祖母との旅行

病を患っていた祖母は、家から出るのも一苦労という感じだったが、私が小学校1~2年生になったくらいの頃、祖母含めて家族旅行で九州に行くことになった。数少ない祖母との旅行の思い出である。

と言っても、これも遠い記憶なのでどこに行ったかなどの詳細はぼやけてしまっているのだが、そんな中、唯一今でも目の裏に鮮明に蘇る光景がある。見事に咲く満開の桜並木だ

その桜並木の先には、人の名前がズラーッと並んでいる場所があり(確か灯篭だったような)、子供心に少し怖かったことを覚えている。しかも、祖母と母いわく、その中に大叔父の名前があるかもしれないというではないか。そこでなんとなく大叔父の名前を探すことに。

・祖母の意外な反応

でも、全然見つからない。まず飽きたのは兄だった。空気を読まずにその辺でダラダラしだす。私もそうしたい気持ちだったが、自分まで探すのをやめたら祖母がブチギレる気がしてやめるにやめられなかった。僕は知ってる。いつも中途半端で放り出すとおばあちゃんは怒るのだ。うすうす罰ゲーム感を感じながら探していると……


「もうエエから」


──と、まさかの祖母がストップをかけたのである。私達の体たらくに失望していたのか、それ以外の感情があったのかは私には計りかねたが、完璧主義の祖母のこの言葉は意外だった。結局、我々はそこで大叔父の名前を見つけることはできずに帰った。

・知覧特攻平和会館

その場所が知覧特攻平和会館だったと知ったのは祖母が亡くなった後。そして、知覧特攻平和会館の灯篭に名前があるかもしれないということの意味を認識したのもその時だ。ずっと患っていた病が原因で私が14歳の頃に亡くなった祖母。寝たきりだった後年の様子を想うと、あのタイミングで知覧に行ったことに意志を感じずにはいられない。

なお、大叔父の名前は中尾敬美(なかおたかよし)。後に、祖母の妹(私からしたら大叔母)家族が政府に問い合わせたところによると、名簿には名前がありパラオが戦死の地だったそうだ。

・忘れないこと

改めて母に聞いてみたところ、もちろん会ったことはないが、「勉強ができて美男子だった」と祖母がよく言っていたとのこと。教育に熱心だったのは、元からの意識の高さもさることながら「兄の分も」という気持ちもあったのだろう。

思えば、祖母は戦争の話を私にはあまりしたがらなかった。しかし、テレビで戦争の特集などがあればビデオに録画して見ていたことを思い出す。大事なのは忘れないことなのかもしれない。毎年、この時期になると思い出す。見事な桜、イケメンの白黒写真、優しいまなざし、そして、祖母の部屋の匂いを──。

執筆:中澤星児
Photo:Rocketnews24.