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【10回目の命日】伝説の一戦 10.31「三沢光晴 vs 小橋建太」を改めて振り返る

2019年6月13日

今からちょうど10年前の2009年6月13日、プロレス界は三沢光晴(みさわ みつはる)を失った。受け身の達人として知られた三沢が、まさかリング上で起きたアクシデントでこの世を去ってしまうとは……。あのときの衝撃は今でも忘れることができない。

誰よりも相手を激しく攻め立て、そして誰よりも相手の技を受けきる三沢は、まさにプロレスの体現者であった。数え切れないほどの名勝負を残した三沢であったが、今回は1998年10月31日、日本武道館で行われた「小橋建太(当時は健太)戦」を振り返ってみたい。

・1998年のプロレス界

この戦いは、当時絶大な人気を誇っていた「全日本プロレス」のリングで行われた。全日本プロレスの創設者「ジャイアント馬場」が亡くなったのが1999年。それからほどなくして三沢はプレレスリング・ノアを設立しているから、ジャイアント馬場がその目で見た最後の「三沢 – 小橋戦」だったハズだ。

さて、1998年のプロレス界はその後やってくる “暗黒期” の入り口に立っていたと言っていいだろう。1月には長州力が1度目の引退試合を東京ドームで敢行、4月にはアントニオ猪木がドン・フライ相手にラストマッチを戦った。いま思い返しても確実に節目となる年である。

・押し寄せる総合格闘技の波

何より大きいのは、世間の目がプロレスよりも「PRIDE」などの総合格闘技に向き始めた年であるということ。この年の10月、PRIDE.4のメインイベントに立っていたのはヒクソン・グレイシーとリベンジを喫する高田延彦の2人。そして高田はなす術もなく敗れ去った──。

常に「八百長だ」「やらせだ」と冷やかしの声が付きまとうのがプロレスの性(さが)である。高田の敗戦にプロレスファンはショックを受け、アンチプロレスの面々は悦に浸った。その衝撃の敗戦からわずか約3週間後に、三沢光晴と小橋建太の三冠ヘビー級マッチは行われたのだ。

このとき、全日本プロレスは総合格闘技と一線を引いていた。ジャイアント馬場の意向も強くあったのだろう、全日本プロレスと総合格闘技は決して交わらない水と油であった。だがしかし、三沢や小橋の胸に強く思うところがあったことは想像に難くない。「プロレスをナメるなよ」と──。

・壮絶なタイトルマッチ

試合の詳細については割愛するが、三沢が初めて「断崖式タイガードライバー」を繰り出したのはこの試合である。その1つだけでも三沢と小橋の並々ならぬ思いが伝わってくるようではないか。

結局、試合は43分29秒の激闘の末、三沢が勝利を収めた。だが、三沢が勝った相手は小橋だけだったのだろうか? そもそも小橋は負けたのだろうか? 会場に鳴り響くスパルタンXと大・三沢コール、そして大・小橋コールが全てを物語っている。

とにもかくにも、口数はさほど多くなかった三沢であるが、その戦いと生き様に勇気づけられたファンは数知れない。今なお、プロレス界に絶大な影響力を残す三沢光晴の10回目の命日に黙祷──。

イラスト:稲葉翔子
執筆:P.K.サンジュン

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