私(佐藤)はまもなく50歳になる。よもや半世紀も生きてきたとは、自分自身でも驚きだ。
この歳になってまったくもってわからないことがある。それは「適性」についてだ。
あるものごとに対して、適しているかを指す言葉なのだが、歳を重ねるにつけ、適性のあるなしはカンタンに判断できない、そう考えるようになった。
なぜなら、運動の適性が低かった(運動神経が悪かった)はずの私が、いまだに成長を実感できているからだ。適性ってなんだ!?
・適性なんて……
物事に適しているかどうか、誰がいつ判断するのものなのだろうか?
私は子どもの頃、運動が不向きだった。少なくとも「運動神経が悪い」と自覚していたし、実際にチーム競技では、もれなく仲間の足を引っ張っていた。走るのは遅いし、球技はまったくダメだったし、何かの競技で選手に選ばれたことは1度もない。
自分には運動は向かないし、好きになれなかった。いや、はっきりと嫌いだった。何をやっても小バカにされて恥をかくだけだったので、好きになりようがなかったのだ。
「運動の適性がない」、自ら認めているだった。
そんな私が43歳からポールダンスを始めて、早いもので6年も経過している。もはや初心者ではなく、今ではお世話になっているスタジオで、初心者向けのレッスンをさせて頂いている。
自分で言うのもなんだが、始めた頃とは比べものにならないほど、上達していろんな技ができるようになっている。
たとえば、逆立ちさえできなかったのに、今では両肘をついて倒立(肘倒立)して静止したり……。
正面から飛び上がって身体をひるがえして、「ハンドスタンド」(両手だけで行うポール上の逆立ち)したり……。
ずっと憧れだった「アイアンエックス」(ポールを持って真横になるヒューマンフラッグ)ができるようになったり。まだ精度はイマイチだけど……。
スピンからハンドスタンドに入る「フェニックス」ができるようになった。
ポールダンスを始めるのは遅かった。もっと早く、若いときから始めていたらと思うのはたしかだ。でも、遅すぎたとは思わない。だって、できなかったことがちゃんとできるようになっているから、今できないこともいずれできると信じている。
運動の適性はなかったのだろうか?
本当に運動神経は悪かったんだろうか?
イヤな思いをして体育の授業を受けた意味は?
運動会に参加した意味は?
球技大会やマラソン大会は、何のためにやってきたのだろうか?
過去を問うても仕方がないことだ。きっとあの頃には、ほかに必要なことをやっていたのだろう。
適性のあるなしは誰にもわからない。そして続けてみないとわからないことでもある。だから、何かを始めるのに迷っている人は、とにかく始めてみるといい。そしてできるだけ長く続けるといい。向き不向きを超えて、自分のものになるかもしれない。
また、お子さんのいらっしゃる方は、今だけを見て適性を判断しない方が良いかもしれない。私みたいに中年になっても、遅すぎるということはないのだから。
いつでも誰にでも、自分の可能性を開くことはできる。「適性」なんてただの言葉だ。
執筆:佐藤英典
Photo:Rocketnews24