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広島県海田町が推す観光スポット「旧千葉家住宅」が、あまりにも千葉県だった / 海田町に広島への背信の疑い

2023年8月23日

おいどうすんだよこれ。広島県の提供で広島のPRしなきゃなんねぇのに、どうやっても千葉の侵攻を止められねぇ……!

全ては海田町が推したスポットが原因。もしやそれを狙っていた……? 広島県海田町は千葉県のスパイ説がここに爆誕。

・千葉家

海田町には「旧千葉家住宅」という、昔の構造をそのまま残す貴重な家があるんですよ。そんな感じの前情報のみでやってきたこちら。まあ古い建築物というのは興味深いしな。


海田は古くより宿場町として栄えていた。千葉家は宿駅で要職を勤めていたそうで、この邸宅は要人の宿泊などにも用いられたという。座敷棟は1774年に建て替えられたもので、当時のスタイルがそのまま残っている。


分かりやすいのはトイレだ。マジで いにしえスタイルじゃん。


壁には刀を置く場所が設けられている。てか、昔はトイレでも畳使うパターンがあるんか……。何がとは言わないが、狙いがそれた時の掃除がマジで大変そう


邸内には様々な古い道具が残っている。


実は昭和30年から40年頃までは千葉家の人が住んでいたため、そのころくらいの道具なども残っている。こちらの方が現代人でもピンとくるかもしれない。


個人的に最もイイ感じだと思ったのは庭だ。


そこそこなサイズの池もあり、金持ちだったんだろうなぁと。


・千葉から来た

へぇーという感じで見学しながら、ふと “千葉家ってエラくなる前は広島で何やってたんですか?” と聞いたところから、急速に千葉の侵攻が始まった


実は千葉一族は元は広島人では無かったらしい。今の千葉県にあたる場所(下総国)で、武士をしていたのだという。

それが安芸に移り、毛利の配下に。しかし関ヶ原の戦いで毛利は敗北。千葉家は武士を辞めて名前をロスト

こうして名も無き元武士の千葉(下総国)出身者になったかつての千葉家は、海田にながれつく。以降は「神保屋」という屋号で酒を造るなどして暮らしていたそう。


千葉家が千葉という名前になったのは、彼らの転機となった関ヶ原から270年も後のこと。明治に入って庶民も公的に苗字を持つことができるようになってからだ。

そこでどんな名前にするかとなった際に、かつては千葉の武士だったということで、千葉という名を名乗ることにした……というのが、私が聞いた話だ。端的に言えば、千葉から来たから千葉

つっても、その世代にもなれば全員広島生まれの広島民だろ……と思ったが、彼らの心は千葉にあったもよう。

その証拠に千葉家の庭園の端にある、北極星を神格化した妙見神をまつった祠が、祖先の地である東を向いているのだ。千葉ソウルを忘れないという強い決心の顕れなのかもしれない。


実は千葉県には、千葉氏という桓武天皇に連なる一族が栄えていた。かつて千葉で武士をしていたという海田の千葉家の祖先も、その千葉氏と関係している可能性は高い。

ちなみに千葉氏がいたから千葉県なのではなく、先に千葉という地名があり、そこで権力をにぎった者が千葉を名乗り始めたという順番らしい。千葉氏については千葉市のHPが詳しいので、詳しくはそちらを見てくれ。

ということで、海田町の推しスポット「旧千葉家住宅」。広島の提供なので、私としても隙あらば “広島” と記載してサブリミナル的に読者の脳に広島を刻み込んでいきたいところだったが、残念ながら記事内の “広島” は20件に満たないのに対し、”千葉” は約40件越えという結果になってしまった。もう千葉が止まらねぇ……!

参考リンク:海田町広島県観光サイト「Dive! Hiroshima」千葉市
執筆&写真:江川資具

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