「行ってみなけりゃわかんないもんだな」っていうのは、日本三大がっかりスポットとして有名な 高知県の『はりまや橋』を訪ねてみての素直な感想だ。
本記事では はりまや橋の歴史とともに「がっかりしないポイント」をお伝えさせてほしい。先にネタバレしちゃうと、今回の記事には “4基” のはりまや橋が登場します!!!!
・自然と目に入る「はりまや橋」
高知市へ来てからというもの、筆者の頭は「はりまや橋」でいっぱいになっていた。
だって、中心街をちょっと歩くだけで……コンビニの店名、
建設中のマンションの名前、
ビジネスホテルの名前。
他にもありとあらゆる場所に「はりまや橋」の気配が散らばっているのだから。気にするなと言う方が無理ってもんだ。
──しかし巷では、はりまや橋は「日本三大がっかりスポット」なんて不名誉な地位を確立している。
昔 札幌の時計台でガッカリした経験がある筆者は「きっとはりまや橋だって小さいに違いない」「再建されて新しいのかもしれない」なんて、期待し過ぎないよう自分に言い聞かせたのであった。
・第一のはりまや橋
数時間後。日が暮れてから訪れたはりまや橋は、かなり盛り上がっていた。なにしろ周辺一帯は繁華街。早くもお酒が入った観光客たちが大勢押し寄せていたのだ。
朱色の橋は木製で、思っていたよりも雅な感じだ。周囲のガヤガヤした雰囲気とのミスマッチ感は否めないけど、コレはコレでネオジャパンって感じで面白いんじゃないかな?
元々はりまや橋とは、江戸時代に堀川という川を挟んで商売をしていた播磨(はりま)屋と櫃(ひつ)屋が、互いの店への行き来のために作った橋。
この新しげな橋は、平成10年(1998年)3月に完成した 初代はりまや橋のレプリカということだ。
江戸時代に比べたら最近作られたとはいえ、既に完成から20年以上が経っている。遠くから見ればピカピカに見えた欄干(らんかん)だが、近づいてみるとところどころ赤い塗料が剥がれ、木目が見えて味がある。
ちょっとだけマイナスポイントなのは、橋の下を流れるのは川ではなく川っぽい形をした池ということ。
堀川は街路整備や水質汚染の問題から埋め立てれてしまったのだそうで、風情がなくてガッカリと言えばガッカリかもしれない。
……が、それでも日本三大ってほどじゃなくない? っていうのが筆者の正直な感想だ。
・第二のはりまや橋
以上で観光は終了! と言いたいところだが、まだ終わらない。今はなにも聞かずについて来て欲しい。
はりまや橋の西へ向かって進むと、
地下へと続く階段を発見した。
まっすぐに続く地下道は、国道32号線の下を西から東へ向けて通っている。
地下道を一番奥まで進むと……
なんと、はりまや橋がもう一つある!?
たしかに欄干には「はりまや橋」という文字が書かれているが、先ほど地上で見たものよりも年季が入っているように見える。
それもそのはず。こちらは昭和32年(1958年)に作られ平成9年(1997年)に役目を終えた正真正銘のはりまや橋で、引退後は地下で展示されているんですって!
どうやらはりまや橋はひとつだけを指すのではなく、時代を越えてこの土地にかけられる橋のことを指すらしい。下の代へ名前を受け継いでいく、伝統芸能の襲名制度みたいなものだと思うとわかりやすいかもしれないな。
同じく地下の展示スペースに飾られていた写真を見ると、現役時代は歩道と車道の間の柵的な役目を持っていたらしい。
つまり、当時のはりまや橋には車がバンバン走っていたってことだ。我々が持っているイメージよりもずいぶん大きい橋だったんだな。
すぐ隣に貼られているモノクロ写真も気になった。
着物姿で3人の女性が橋を渡っている様子だ。説明書きによると、写真に写るこの橋もまた はりまや橋なのだという。
・第三のはりまや橋
地上に出ると、すぐ目の前の池に薄いグリーンの橋がかかっていた。
よく見ると、コイツはさっきのモノクロ写真に写っていたはりまや橋じゃないか!!
橋は鋳鉄製で、明治41年(1908年)10月の完成。何度か塗装を直されているようで、凹凸がたくさん残る表面に年季を感じた。
この橋は昭和初期に撤去された後に 三翠園(高知市内の旅館)の庭に置かれ、長い間保管されていたもの。現在の場所へは1998年頃に移設されたのだそうだ。
美術館に飾られるのでも、ガラスケースの向こう側に展示されるのでもなく、人が渡れる状態で形が残されていることにも価値があるように感じた。
ちょうど通りすがった男性が足早に橋をわたっていき、地域の風景として当たり前に受け入れられていることが感慨深い。
繁華街のネオンが水面に反射して輝いているのが、大正と現代が入り混じったような不思議な風情が感じられた。
・第四のはりまや橋
最後のはりまや橋は意外なほど目の前にあった。というか、付近を散策している間中ずっと目に入っていたものだった。
それが国道32号線の車道と歩道の境にある、石でできた欄干。
よく見てみると、ちゃんと「はりまや橋」の文字がある!
平成10年(1998年)、地下道に展示してあった第二のはりまや橋を撤去した際に、入れ代わりで設置されたのがこの石製のはりまや橋だそうだ。
堀川が既に埋め立てられているため、正直 橋というよりも道路上の装飾のような感じ。記念撮影をするならば 絶対に第一~第三のはりまや橋の方が圧倒的に “ソレっぽい” はず。
しかし、時代に合わせて姿を変えていった結果なのだと思うと 妙に納得できるのだ。
・もうガッカリとは言わせない!
一気に4基のはりまや橋を見たわけだが、最後に時系列に沿って整理をしよう。
江戸時代に作られたはりまや橋は木製で、今はもうなくなってしまった。
明治時代に作られたはりまや橋は鋳鉄製で、現在は国道32号線の東側に設置されている。(本記事においては第三のはりまや橋)
昭和になると はりまや橋は車道をともなう大きな道になり、赤い欄干の付いたコンクリート製の橋になった。(本記事においては第二のはりまや橋)
平成に入ると再整備によって赤い欄干が撤去され、現在の石づくりの欄干が設置された。(本記事においては第四のはりまや橋)
ほぼ同時期に、観光名所として初代はりまや橋のレプリカが設置された。(本記事においては第一のはりまや橋)
時代を超えて、4基のはりまや橋が 実際に見て触れる状態で残されているというのは、アツい以外のなんでもない。がっかりスポットなんて一体全体、誰が決めたのだろうか?
ちなみに、地下道には『高知下町浦戸湾風俗絵巻』という、江戸時代の高知市を描いた絵巻物のレプリカが タイル画として飾られている。
絵をたどっていくと……あった!!
話に聞いていた通り、はりまや橋は川を挟んだ二つの商店を結ぶ形で存在していた。
長い時間の中で、はりまや橋とその周辺では様々な出来事があったはずだ。何度も架け替えられ、悲恋の物語が作られ、歌になり、今は観光地として大勢の人が訪れる。
歴史の蓄積ともいえる4基の橋を見て回れば、きっとはりまや橋を「がっかりスポット」なんて言えなくなるはずだ。
執筆:高木はるか
Photo:RocketNews24.
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▼レプリカの橋の前には、よさこいのフレーズにもなっている「純信」と「お馬」の悲恋の物語をモデルにしたモニュメントがある
▼午前9時~午後9時までの1時間に1回、よさこいの音楽に合わせて動くからくり時計。結構出来が良く、時計の中から高知城、はりまや橋、よさこいの踊り子、桂浜と 高知を代表する観光地が姿を現した
▼付近にはアンパンマンや ばいきんまんの石像もあるぞ。やなせたかしさんのご両親が高知県のご出身という理由だそう
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