時を計ると書いて、時計と読む。そう、時計とは人々に時刻を知らせるための道具だ。しかし私はその「時計」に出会った瞬間、しばし時間という概念を失うことになった。
なぜなら、その「時計」が時間を忘れさせるほどに美しいものだったから……。
・大阪の玄関口で
それを発見したのは、取材で梅田を訪れた帰り、特に目的もなく駅前をぶらぶらしていたときのことだ。JR大阪駅の中央南口を出てすぐの場所。いわゆる駅前広場的なスペースに、それはあった。
一見すると大きな額縁のような。いや映画のスクリーンのようなというべきか。これは何だろうか。そう思った次の瞬間……!
お?
おお?
おおお!?
おおおー!! 15時54分!!
おお……
上から文字が「降ってきた」。文字が「表示された」のではなく、文字が「降ってきた」のである。雨のように。いったい自分は今、何を見たのか?
すぐ隣に、説明書きがあった。これは「水の時計」と呼ばれるものらしい。先ほど上から降ってきた文字は、水だったのだ。
正確にいうと、シャワー状の細長い水滴。透明なはずの水に色が付いて見えるのは、上からライトを照らして光を反射させているから。そして個々の水滴を落とすタイミングを調節することで、その瞬間、水のある空間にだけ色が付き、文字のように見えるというわけだ。
しかも映し出されるのは時刻だけではない。各国の言語で「ようこそ」が表示されたり、トンボや紅葉といった季節に合わせた絵柄まで、見事に水滴のみで表現されているのだ。すげー!
・時間よ、止まれ
美しい。ただただ、本当に美しい。そしてジャパッ、ジャパッと水が飛び散る音が不思議に心地よい。
次々と現れる水のアートに魅せられ、その場から動けなくなった。後から考えると、このとき私は一時的に時間という概念を失っていたようにさえ思う。
これから電車に乗って、自宅のある京都まで帰らなければならないのだ。もうすぐ帰宅ラッシュが始まる時間。合理的に行動するならば、さっさと帰るべきなのだ。こんなところで油を売っている暇はない。
だが、私は油を売ることにした。記事を書くのに必要な写真は撮り終えたし、もうこの場所に留まる理由はない。それでも、もう少しここで「水の時計」を眺めながら油を売りたかったのだ。
理屈よりも感性に訴えて人を動かすものが芸術であるとすれば、これこそが芸術ではないのか?
そして「水の時計」といいつつも、その役割は時を知らせることではなく、時を忘れさせることではないのか。わざわざこんなところに時計を設置しなくても、今の時代、みんなスマートフォンを持っている。ましてや大阪駅の南側はビジネス街なので、時間に追われて足早に歩いている人も多い。
そんな忙しい現代人に「少しだけ時間を忘れて、のんびりしていきませんか」と水の時計は訴えかけているように思えてならないのだ。
多くのビジネスマンが行き交う大阪駅前。仕事に疲れたら、少しだけ駅前広場でサボっていきませんか。何も考えずボーッと水の芸術を眺めてみよう。きっと心に潤いが戻るはずだ。
Report:グレート室町
Photo:RocketNews24.