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映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は熱心なジョーカーファンを失望させ、評価も荒れるだろう / しかし妥当で…それが人生

約1時間前

いよいよ2024年10月11日に公開となる『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』。正式なタイトルは長いので、本記事では便宜上「ジョーカー2」という略称を使わせてもらう。

私は9月半ばに都内で行われた完成披露試写会にて本作を視聴させて頂いた。真っ先に思ったのは、これは荒れるということ。特に熱心なジョーカーファンからの評価は、恐ろしく低くなりそうだ。ちなみに私の感想はハッピーエンドである。

公開日の金曜は平日だが、奇しくも直後は三連休。1作目の人気からして、多くのファンが見に行くだろう。そしてSNSでは酷評がバズるに違いない。では駄作なのか? そうは思わない。この映画は妥当すぎるのだ。ゆえに荒れてしまう。

・不在

ジョーカーと言えばバットマン。バットマンと言えばジョーカー。ジョーカーはバットマンシリーズに登場する悪のカリスマだ。

ジョーカーがどんな悪行をしでかそうと、確実に正義のバットマンが現われ、ジョーカーは負けてハッピーエンドを迎える。しかしホアキン・フェニックスが主演する本シリーズにバットマンはいない。

そして本シリーズではジョーカーもまた、他のシリーズにおけるジョーカーとは毛色が異なる。純粋な悪とは断じ難いのだ。

ホアキン演じるアーサー・フレックはあまりに不運で、憐れで、苦しみの多い、救われない人生を送っている。それでも結構な中年になるまで優しさを保ったまま生きてきた、性根の良いヤツだ。

そんなアーサーだが、生来の各種事情や間の悪さ、そしてゴッサムシティらしい治安の悪さがきっかけとなり、ジョーカーに変ずる引き金を引いてしまう。あるいは、彼を取り巻く境遇に “引かれて” しまったという見方も可能かもしれない。


元から問題を抱えていたアーサーの精神はついに破綻し、現実と妄想の区別すらも曖昧に。いよいよ狂気に堕ちていく。ジョーカー化したアーサーの行動はおおむね狂っていたが、全てが純然たる悪だったかは、議論の余地があると思うのだ。

本作のゴッサムにはバットマンだけでなく、ジョーカーらしいジョーカーも居なかったと私は感じた。凶行に手を染めた1人の憐れな病んだ男と、治安の悪い街に相応の小悪人たちがいただけではないかと。


・2

「ジョーカー2」はアーサーが順当に収監された矯正医療センターのような施設と、アーサーの裁判が行われる法廷が主な舞台となる。

前作の終盤から引き続き、塀の外ではジョーカーが貧しい抑圧された市民たちの代弁者のような形で祭り上げられているが、アーサーは獄中でそこそこ模範的に過ごしている

そこでハーリーン・クインゼル(レディー・ガガ)と出会い、狂気を感じさせる恋愛関係を築いて……というのが、導入だ。


本作ではミュージカルのような歌と踊りによる演出が、かなり多用される。歌い、踊っている時間がけっこう長いのだ。

この演出は、アーサーたちの主観的な狂気を、視聴者にビジュアルとして伝えるためのものではないかと私は考えている。これにより視聴者は、どの部分が妄想で、どの部分が現実なのか、アーサー同様に曖昧になるのだ。

そうして迎える物語の最後。ここが本作の最大の論点だ。具体的にどのように終わったかは伏せておく



・ジョーカーファンはキレそうだが…

劇中のアーサーは貧しいゴッサム市民たちからカリスマとして祭り上げられているが、1でできた本作のジョーカーの熱狂的なファン達の姿勢は、ジョーカー支持者のゴッサム市民に通じるものがある

アーサーの抱える問題のそれぞれが現実に存在するからだろう。幼少期の虐待、貧困、介護、精神的な病など。そしてそれらの果ての凶行。昨今では珍しくない話だ。

1でジョーカーにカリスマ性を感じたファンたちが期待するのは、きっとジョーカーによる気持ちのいい反逆なり、悪のカリスマとしてビッグになる展開だろう。

前者を求めていた者たちは、この終わり方にブチ切れるはず。私が冒頭で述べた、熱心なファンからの評価が低くなるというのはそういうことだ。

この終わりは彼らの期待の真逆をいく。多くのジョーカーファンに対し、梯子を外したとすら言える。

しかし本作のファンはジョーカー支持者だけではない。1でジョーカーとしてはともかく、従来のアーサーに同情したファンもいるだろう。彼らの期待することは、恐らくアーサーが救われることだと思われる。

彼らはこの結末をどう受け止めるのだろうか? 何だかんだで私は、これも二分されると思う。あまりに酷いと感じる人がいれば、それはわからなくもない。

しかしアーサーにとって、これは救済だと私は考えている。私の感想がハッピーエンドなのはそういうわけだ。

考えてみて欲しい。共感や同情できる要素は多いかもしれないが、アーサーは警察に把握されているだけで一般人を3人、元同僚、そして生放送で司会者を手にかけた殺人鬼である。

周囲にカリスマ化されてはいるが、狙って自らをカリスマ化したわけではない。高い知能も凄い戦闘力も資産もない、素のスペック低めの笑いがとれない失業ピエロおじさんだ。

フィクションの娯楽映画で選択すべき妥当性かはともかく、そのような何も持たない重罪人の行きつく先として、相応ではなかろうか。言っていることが無情なのは自覚しているが、しかしそれが人生だろう

少し驚愕したが、それは “ジョーカーを賛美する多くの熱心なファンがいる状況で、商業的によくこれを選んだな……” というメタいものであった。



・That’s life

1から引き続き、テーマソングとして流れるフランク・シナトラの「That’s life」。本シリーズは最初からあの名曲のように始まり、そして終わった。シナトラの歌が能動的なのに対し、アーサーは受動的であったが、身の丈通りだ。

きっと恐らく多くの若い方は、あの曲を最後まで聞いたことがないし、歌詞も知らないだろう。未視聴者のために1つアドバイスがある。

「ジョーカー2」を見終わり、ブチ切れるなり、残念に思うなり、悲しくなるなり、そこは大いに分かれると思うが、見終わるまでシナトラの「That’s life」の歌詞を検索してはならない

だが見終わったなら、その時どのような感想にあれど、とりあえず曲の歌詞を最後まで追うと良いだろう。ジョーカーをあのような見せ方をした1からずっと流れてた曲がこうなのだ。まったく、この映画そのものが道化じゃないか。

もっとも全ては我々が終わりと認識しているあのシーンが、アーサーの妄想でなければの話だが。いったいどこからどこまでがアーサーの妄想だったのか、実のところ私には、正確に識別できている自信が無い。

参考リンク:ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ
執筆:江川資具
Photo:RocketNews24.

▼That’s Life

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