幼い頃にした強烈な体験の中には、往々にして大人になってからも影響を与え続けるものが存在する。何か良い影響を与えてくれる場合もあるのだろうが、それは私に言わせれば幸運な例。悲しいかな、強烈な体験というのは人をろくでもない方向にいざなうものの方が多いというのが個人的な見解だ。

いわゆる「トラウマ」というヤツである。誰しも一つ二つあるだろう。なぜ急にこんな話をするのか言うと、先日魚屋をぶらぶらとしていた時、久しぶりにトラウマのフラッシュバックにやられたから。

これは私の個人的な恐怖体験についての話で、もしかしたら共感できる点があるかもしれないが有用性は皆無。先に進む方はその辺をご理解いただきたい。では始めよう。あれは私がまだ小学生のころ……

・港にて

その日、私は家族と共に九州のとある漁港に併設された魚市場を訪れていた。あいにく天候には恵まれず、空には一面の鉛色の雲。ほぼ霧に近い小雨があらゆるものを湿らせていく。どう考えても出かけるには不向きな日だった。

しかも来たのは魚市場。小学生の男児にとって必ずしも面白い場所ではない。少なくとも私からすれば、面白いどころか退屈極まりない場所だった。しかし両親は、多くの新鮮な魚介類が驚くべき安さで売られているのを見て気をよくしていた。

そのような状況で子供がとる行動は決まっている。親のそばを離れ、暇つぶしに探索を始めるのだ。もしかしたら女の子の場合はそうでもなかったりするのかもしれないが、男児の場合はそれしか無い。

こうして私は市場をうろつきはじめ、箱の中で静かにうごめくイカや、水槽の中で圧倒的な存在感を発揮する巨大なイセエビを冷やかして回った。そこまで面白くも無いが、その状況下で得られうる最大限の楽しさを享受していたわけである。


・サメの死骸と共に

うろうろするうちに、気づけば私は漁師たちが作業するエリアに入り込もうとしていた。市場よりもずっと好奇心をくすぐられる。さらなる探索の前に両親のいる方を確認すると、市場の人と会話をしている。先ほど冷やかしてきたイカ売り場だ。

これは、まだまだかかるだろう。子供にとってそれは探索へのGOサインを意味する。こうして私は、より濃厚な魚の臭いが立ち込める、港の奥へと足を踏みいれた。

道すがら見たものは、売られ、食べられゆく運命に対して無力なイカやエビたちよりも、はるかに面白いものであった。恐らくは売り物にならないからだろう。死んだサメやら、売り場では見たことの無い色鮮やかな魚が無造作に転がっていた

その横では人々が魚を仕分けていたり、漁師たちが魚の血にまみれたカゴやら網やらを洗ったり、軽トラになにやら積み込んだりしている。通路脇にはナタのような刃物が複数ブッささっている柱などもあり、迫力満点だった。

漁師たちはうろつく私のことなど全く気にせず作業に没頭していた。転がっている魚をつついていても、何も言われない。どの道捨てるからだろう。これ幸いと、私は死んだサメを拾いあげて探索の仲間とし、より奥へ進むことに。その先に待ち受けるものを知らずに……。



・生臭い漁港の端で

その男がいたのは、漁港の一番奥。そこから先は海という場所である。周囲には人影もまばら。床には魚の血が混じった水溜りがそこかしこにあり、生臭さは市場付近よりも濃厚だった。

特別に不審者というわけではない。中肉中背で、30歳くらいだろうか。胴付長靴を履いていたので、恐らく漁師だろう。鉈やら鉤(かぎ)やらがぶら下げられた作業台によりかかりながら、タバコをふかしている。

そこにサメの死骸を引っさげた子供(私)がやってきたのである。男の注意を引くのも無理は無いというもの。男は私の方を向き、互いの視線が交差した。男の顔は日焼けして浅黒く、深いシワが刻まれた皮膚は、まるで乾いた流木のよう。そしてその目は尋常じゃなくギラギラしていた

私から見て男は海を背にしていたため逆光となっていた。日焼けした顔の黒さもあいまって、男の白目が余計に目立つ。その顔は社会科の資料集で見た仁王像を思い出させた。

どれくらい目を合わせていたのだろう? 実のところ、私は男のあまりの眼力に目を逸らすことができなくなっていた。蛇に睨まれたカエルとでも言おうか。ドクドクと目の奥で血管が波打つような感覚と共に、心拍数があがりつつあるのを感じていた。

もしかして叱られるのだろうか? やはり勝手に持ってきたサメがいけなかったのだろうか? 色々な思考が頭の中を駆け巡る。すでに慣れつつあった生臭い臭いが急に強烈に感じられ、サメを握る手にじっとりと嫌な汗をかき始めていた。

目が合ってからどれくらいが経過したのか、男は急に動きを見せた。どこからとも無くサバを取り出したのである。実際のところどうなのか知るよしも無いが、私にはサバが生きているように……ピクピクと動いているように見えた。それどころか、サバとも目があったかのようにすら思えた。



・サバの死

しかし、直後に起きたことを思えば、その時点におけるサバの生死は意味の無いことだったのかもしれない。男は吊り下げられていた鉤を手にすると、サバの頭のあたりにブッ刺したのだ。私には鉤の鋭利な先端がサバの背骨をへし折り、貫通するまでの全てが見えたような気がした

そして一体どうやったのか、鉤でサバの腹を割き(鎌と違い、鉤に刃は無い……ハズ)、内臓をとり出して投げ捨てたのである。男は私に何見せようというのだろう。心拍数が上がったからだろうか? 目の奥のドクドクという波打つような感覚は、より激しさを増していった。

サバから流れ出た真っ赤な血が、漁港の床に血だまりを作りはじめていた。男の手は赤く塗れ、その目はギラツキ具合を増しつつ、私の目の奥をまっすぐに凝視し続けている。

もはや何もかもが尋常ではなかった。視界の中で、男の姿が何十メートルものサイズまで巨大化したかと思えば、今度は数センチレベルまで小さくなったりを繰り返しはじめていた。目の奥の血管が波打つ感じに呼応するように、伸縮のペースは増していく。

男は止まらなかった。鉤をひるがえすと、恐るべき手際の良さでサバの皮をずるりと剥き、投げ捨てたのだ。そして、あろうことかそのままサバを食らい始めたのである。ひとくち、もうひとくちと。その歯はおぞましく黒ずんでおり、異常な尖り方をしているように思えた。

先ほど鉤を操った際の、恐るべき速度とはうってかわって、男はとてもゆっくりとサバに噛み付き、その肉を食いちぎっていく。まるで見せ付けているようだった。私の視界では、男だけでなく、サバまでもがいっそう激しく巨大化と縮小を繰り返すようになっていた


・滑り落ちたサメの死骸

ここで私から一つ、人生におけるちょっとしたアドバイスをしようと思う。もしあなたが冒険に出る予定があるならば、良き仲間を見つけることだ。その有無は、時に運命を分けるものである。

あの時、狂気の世界から私を現実に連れ戻してくれたのもまた、私の仲間であった。そう、拾ってきたサメの死骸だ。詳しい種類は分からないが、少なくともネコザメなどの類ではなかった。

成長すればもっと大型になるサメで、当時の私と同じく子供だったのだと思う。出合ったときには既に死骸で、当然動いたりはしない。しかし私はサメに愛着を抱いていたし、あちらが死んでいたがゆえに平和な関係を築けていたことは無視できない。

その時、私はサメの尾びれの付け根辺りを握っていたのだが、いつの間にか手から力が抜けていたのだろう。滑り落ちたサメの死骸は、魚の血で塗れた漁港の床に向けて落下。その途中、どこかしらの部位で私の脚の皮膚をこすっていった。

サメの肌というのはヤスリのようにザラついており、皮膚にこすれるとそれなりにヒリつく。おかげで硬直からとけた私は、一目散にその場から逃げ出したのである。

それまでは何もかもが麻痺し、まるで精神ごと金縛りにされてしまったかのような状態だった。しかしいざ解けてみると、どうやら自分が糞尿を垂れ流す一歩手前まで恐怖していたことに気付いた。あの時我に返らなかったら、きっと私は硬直したままズボンを汚していたに違いない。


・フラッシュバック

あれから20年以上。今でも新鮮なサバを見るとあの男の姿が脳裏に浮かぶ。しかし先日、久しぶりのフラッシュバックを機に、ふと気付いてしまったのだ。あの男が私にもたらした変化は、恐怖体験による些細なトラウマだけではなかったのでは……と。

思い返せば、あの後からだった。それまでは恐怖の対象であったベッドの下の暗がりや、少し開いたクローゼットの隙間の暗がりから感じ取れる、子供であれば恐れて然るべきモノを恐れなくなったのは。

忘れてしまったなら思い出していただきたい。幼い頃、布団から足だけ出して寝るのが怖かったりしなかっただろうか。ともすれば、頭まですっぽりと布団の中に納まらないと安心できなかったのでは?

思い出して頂けただろうか? 幼少時にのみ感知できて、成長と共に気付けなくなる、暗闇に潜んでいる何かのことである。大人からすれば全くばかげた話だが、健全な子供というのは、大人には見えない何かを暗闇に見い出し、それに恐怖するものだ。

そして次第にその手のものとは疎遠になっていく。これは健全な成長の一側面だと思う。もし暗闇に恐怖しない子供がいたら、その子の日常により恐ろしいものが存在しているのだろう。真に憂慮すべき何かが。

それはともかく、私が暗闇に潜むものたちと疎遠になる年齢に達したのは、あの男を見てから数年後。つまり私は、暗闇に潜む何かの存在を確信しながらも、恐れなくなったのだ。

理由は単純である。暗闇に潜んでいる大人には分からない何かは、1度も布団から出ている足を掴んだりしてこなかったし、クローゼットの扉の向こうにいる何かも、1度だって私をその闇に引きずり込もうとはしてこなかった。そもそも1度だってはっきり見たことが無い

でも、明るいところ……それも、近くではないとはいえ、他の大人がたくさんいる場所で、何よりも恐ろしいモノと出くわしてしまったのだ。真に恐ろしいモノというのは、明るかろうか暗かろうが、出るときには出る……あの男によって、少年の私はそれを理解させられていたのだ。


気付いたことはもう一つある……。


あの時の体験のフラッシュバックは、私にとって常に恐怖であり続けている。今でもだ。幼い頃は、単純にあの男の目が、あの血を流すサバが、そして彼らが激しく大きくなったり小さくなったりする光景が怖かった。

しかし今では、私もあの時の男と同じくらいの年齢。よもやサバを食べる中年男に恐怖など無い。それに、男やサバが激しく伸縮を繰り返していたのも、単に「不思議の国のアリス症候群」と呼ばれるものだと知っている。


・謎の妄想

本来ならば、恐怖する要素など何一つ無いはずなのだ。では今の私は、あのフラッシュバックの何に恐怖しているのか……? 

実はフラッシュバックと共に、謎の妄想に駆られるのだ。妄想の中で、私はあの男のように目をギラつかせ、生きている鯖をブチ殺して食べ始めてしまう。そしてサバをむさぼる私の顔は、あの男の顔そのものになっている……。

そして頭の片隅には、そうしたいという願望がほのかにチラつくのである。例えばだが、ガラス食器などのお店に入ると、急に自分が暴れだしてそれらを壊し始めるという妄想をしてしまい、しかもなんだか実行しそうで怖くなることは無いだろうか?

このパターンなら共感してくれる方もそこそこいると思う。そのガラス食器の妄想の、サバ版である。もし行動に移したら、サバだろうとガラスだろうと狂気の証明に他ならない。そうとわかっていながら、気を抜くと行動に移してしまいそうな危機感があるのだ。

そう、いつのまにか恐怖の対象が、あの男と、そしてあの時見た光景そのものから、あの男の行動を模倣しそうな自分自身へと移っていることに気付いたのである。


・鯖の生食文化

しかもサバである。あれは九州での話だからいいのだ。九州においてサバの生食というのは割とメジャー。私もサバのブツ切りを生で食べたことがあるし、九州出身な編集部の原田たかし もまた、サバを生で食べたことがあると言っていた。

これは他の地域にお住まいだと、いささか信じがたい話だろう。特にアニサキスに感染する危険は広く知られている。ちなみに九州でサバの生食が盛んでもアニサキスにやられる人が続出しないのは、あの辺りで取れるサバが主に日本海側のサバだから……という説がある。

日本海側のサバにもアニサキスはいるが、太平洋側にいるものとは種類が違うとされているのだ。その辺は東京都健康安全研究センターの年報に詳しくまとめられているが、要約すると「日本海側のサバは内臓を取ればアニサキスもほぼ大丈夫」という感じである。

あくまでも1つの研究結果に過ぎないので過信は禁物だが、確かにサバを生で食べまくる文化が特定のエリアにあるのは確か。この体験の直後に、実は私の親もサバを購入していたことが発覚。帰ってからブツ切りの皮がついたままのサバに噛り付いたが、誰も腹を下したりしなかった。

なお大分県の関サバも生で食べまくるが、あれがなぜ大丈夫なのかはわからない。また、日本海側のサバとて100%安全とはいえないので全ては自己責任だ。でも現地では採れたてピチピチのサバを生で食べていた。ゆえに筆者に恐怖を植え付けたあの男の行動も、もしかしたら九州では普通なのかもしれない。

その辺りがどうであれ、今私が住んでいるのは関東。採れたてのサバにかじりついたら、かなりの確率でアニサキスにやられてしまう。理性を保っているかぎりそんなことはしないだろう。しかし、サバを見るたびにあの時のフラッシュバックと、サバをむさぼりだす妄想に襲われ続けるとしたらどうだ

はたして私はいつまで平静を保てるのか……そのうち限界がきて、唐突にサバを食い始めてしまうのでは? もしかしたらその時、私の前には偶然か、あるいは何かの因果か、見知らぬ子供がいるかもしれない。きっと私の目はギラついていて、仁王像のごとき顔をしているのだろう。そしてその子供もいずれ……。 

参考リンク:東京都健康安全研究センター(PDF)
執筆:江川資具
イラスト:稲葉翔子