いま、なんだかとても空しい気分です。怒りとか悲しみとかを通り越して「いつからこんな風になっちゃったのか……」と、やり切れない気持ちがこみあげています。ええ、話題の「南青山・児童相談所建設反対の声」を聞いてから。

詳細については「南青山」で検索すると色々と出てきますので割愛しますが、なんだか寂しい世の中になっちゃってますよね? 色々と原因はあると思いますが、1つは「歪んだ自己責任」が招いているのではないでしょうか?

・歪んだ自己責任

みなさんは「児童相談所」がどんな施設なのか知っていますか? 児童相談所とは子供に関する相談に応じ援助などを行なう行政機関のことで、親からの虐待を受けたと思われる児童を発見した際に通告する機関としても知られています。

東京では都だけではなく23区それぞれが児童相談所の設置を検討していますが、いま話題になっているのは港区の児童相談所の件。反対する住民の多くは「なぜ南青山に建てなければならないのか?」と憤っていると聞きます。

「南青山のブランド価値が下がるから反対」「児童相談所の子供が地元の子供と比べてかわいそうだから反対」「ネギを買うのに紀伊国屋に行くような土地だから反対」とか言っていると聞きますが、みなさん要するに、


「自分のテリトリー内にできるのは反対」


……ということなのでしょう。きっと反対している人たちも児童相談所そのものについては「存在するべき施設」だと理解しているハズです。

・自己責任の意味が変わってきている

さて、ではなぜ「あるべき施設」「あった方がいい施設」が自分のテリトリー内に進出してくると、一気に反対に傾いてしまうのでしょうか? あくまで私(P.K.サンジュン)の推測にしか過ぎませんが、1つには彼ら彼女らなりの「自己責任」が根底にあるのだと思います。

自己責任とはいわば「自分の行動は自分で責任を持つ」ということ。ただ現代社会においてこの「自己責任」という言葉は、さまざまな意味合いを含んでいます。最近ではジャーナリストの安田純平さんが解放された際「自己責任論」が広く話題になりました。

確かに自己責任は大切です。私自身も自己責任の精神は、常に心の真ん中に留めておきたいと考えています。ただ、最近の「自己責任」って、なんとなく「自分だけが良ければいい」「自己責任なんだからそいつが悪い」といったニュアンスも含まれていないでしょうか? いつの間にか攻撃的になっちゃってるんですよ、自己責任って言葉自体が。

きっと反対の声を挙げている人の多くは「自己責任」において自分の思い描く南青山を守ろうとし、また違った「自己責任」において「児童施設に入るのも自己責任。こっちに来るな」と考えているのだと思わざるを得ません。それが「自己責任」の名を借りた「自分勝手」だと気付かずに。

・自己責任は自分だけに使うべき

そもそも「自己責任」は自分の中にあるもので、他人に強要すべきものではないと思います。自己責任の精神はあくまで自分を律するものであり、他者を責める道具に用いるべきではありません。仮に何かに失敗してしまった場合、本人が一番「自己責任だ」と自分を責めているんですから。

南青山といえば、言わずと知れたセレブ街です。きっとそこのお住まいの方の多くが厳しい「自己責任」を自らに課し、成功を収めて来られたのでしょう。それ自体は大変すばらしいと思いますが、いつの間にかその「自己責任」が「自己中心」になっていないでしょうか?

先述のように、本来の「自己責任」はシンプルな精神です。ただ、それを自分以外の誰かに当てはめた瞬間、そして当てはめられた瞬間「自己責任」は途端に息苦しいものに変わってしまいます。もう1度言いますが、自己責任は己に課するもので、他者に強要するものではありません。

さらに言うならば、例えば親から虐待を受けて児童相談所に保護される子供は自己責任なのでしょうか? そんなハズがありません。心が狭くなることも自分勝手な論理を振りかざすことも結構ですが、罪のない子供には優しくしないまでも、せめて妨害するような行為はやめるべきです。

念のため記述しておきますが、南青山の住人の方の中には児童相談所の建設に賛成する声も多いと言います。どうか一部の人の歪んだ自己責任論がまかり通ることがありませんように。人間いいときも悪いときもあるものです。自己責任で人を責め立てると、いつしかその自己責任に殺されかねませんよ。

執筆:P.K.サンジュン
Photo:RocketNews24.