世の中には、カッコイイ男のみが口にすることを許されるセリフがある。例えば、「俺のカードで好きなのを買えよ」ってセリフもそうだ。それはまるで映画。『プリティ・ウーマン』のリチャード・ギアであるが、いざ現実にその言葉を口にしようと思ったら……なかなか難しい。

まず、そう言えるだけの経済力がいる。気前の良さもいる。そして、その言葉がイヤミに響かないだけの “内面の清潔さ的なもの” もいる。どう考えても、ハードルが高いセリフであるが……そんなハードルをなぎ倒すようにして、カッコイイセリフを口にする人も世の中にはいるのだ。私が約10年前に出会った、ある上司のように……。

・ブラック企業に入社した実体験

これから紹介するのは、私が以前に勤めていた会社での話である。その会社は小さな編集プロダクションで、求人広告を出している期間の長さでは他社の追随を許さないという特徴があった。永遠に行われる人材募集。オールウェイズ求人。そんな会社だ。

求人広告に記載されている「弊社は少数精鋭のアットホームな職場です。やる気を第一に評価するので経験不問」という紹介文に釣られてノコノコとやって来た私のような世間知らずに、目潰しと金的を容赦なく浴びせ、世間という名のリングがいかに厳しいかを教えてくれる……つまるところブラック企業である。

その会社で社長を務めていたのは50代の男性なのだが、これまた控えめに言っても「どうしようもないクズ」。その社長をクズと呼ぶことが、世界中のクズに対して失礼だと思うくらいのクズであった。

・ブラック企業に入社して最も困ったこと

当然ながら、そんな会社に入社すると困ることがたくさんある。中でも最も最悪だったのは、「社長が領収書を受け取ってくれないこと」。仕事中にこちらで立て替えたお金が知らぬ間に不良債権と化している理不尽な展開には、何度も泣かされたものである。

他にも、当時を振り返るとあり得ないことは数え切れないほどあったように思うが、今も忘れられないのが「マウス早い事件」だろう。それは入社したばかりの頃。私に支給されたパソコン一式にマウスがなく会社にも予備のマウスがなかったことから始まる。

ちなみに、編集プロダクションはほぼ毎日長時間のデスクワークであり、パソコンがなければ仕事にならない。私に与えられたノートパソコンには一応タッチパッドがついていたものの、パソコン自体が頻繁にフリーズするような代物だったためか、タッチパッドの反応が鈍すぎて使いにくいこと極まりなかったのだ。

だったらマウスを買えばいいじゃない! なんならパソコンごと買えばいいじゃない! ──普通ならそう思うだろう。当然、私も社長に「マウスがないと仕事ができないので買って欲しい」旨を直訴したところ……社長は「新人が生意気なことを言うな」とでも言いたそうな表情で、こう一喝したのである。


社長 「お前にマウスはまだ早い」


──え!? マウスに早いとか遅いってあんの? ……謎すぎるお言葉であったが、よくよく考えれば、社長がそう言った背景にはブラック企業ならではの事情が密接に関係しているように思う。というのも、その会社は圧倒的な離職率の高さを誇っており、新兵を補充しても数日で逃亡する状態が慢性的に続いていたのだ。

そのためか、社長は新人に対して「どうせすぐに辞めるんだろ」という態度を隠せなくなっていたのである。そんな不信感が、仕事に必要な道具を新入社員に与えないことにつながり……要は、社長なりの経費削減対策だったのだ。

・ブラック企業を辞められない事情

今にしてみれば、「あんなクソな会社、すぐにでも辞めればよかった」と思うが、当時の私はなかなか退職に踏み切れなかった。「辞めたら家賃とかをどうしよう?」とか「生活費は?」とか「他の仕事がすぐに見つかるのか?」などと不安が尽きなかったからである。

しかも、その会社での仕事量が膨大すぎて、転職活動をする時間もない……。といった理由で、当時の私は「働くしかない」と思い込んでいたのである。

・2カ月後に社長が少し心を開いて……

それから約2カ月──。私は徐々に仕事に慣れてきたものの、気持ちは帝愛地下王国に放り込まれた多重債務者のそれであった。会社を辞めることで頭がいっぱいだったし、「このお先真っ暗感をどうしようか」と心理的にギリギリのところで毎日考えていた。

その一方で、社長は私を少しだけ信頼してくれるようになったようだ。「こいつは簡単に会社を辞めはしない」と思われたのかどうか知らないが、ある日社長が私に声をかけてきたのである。しかも、明らかに「いいニュースだぞ」的な感じで。それから……社長はドヤりながら、私が全く想像していなかった言葉を言い放った。それは次のページへGO! 

執筆:和才雄一郎
イラスト:稲葉翔子
Photo:RocketNews24.