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2014年5月24日より、タレントの劇団ひとりさんが初監督を務めた『青天の霹靂』の公開が始まった。この作品は、ひとりさんの2作目の小説作品であり、映画化にあたって脚本(橋部敦子氏と共同)と出演(轟正太郎役)をこなしている。

物語は、冴えない中年マジシャンがある日、落雷に遭い過去にタイムスリップ。若き日の両親に出会い、自らの出生について知るというものだ。モニター試写で9割の人が涙を流したというのだが、記者(私)も声を殺して嗚咽する有様であった。

一体何がそこまで感動を誘うのだろうか? ひとり作品の魅力のひとつに、彼自身のまなざしがあるのではないかと考える。

・2作の共通点

まず今作は、彼の初めての小説作品『陰日向に咲く』と、いくつも重なり合う点がある。なお、『陰日向……』は構成上、作品として特異な点があるが、それについては割愛するとして……たとえば、浅草の劇場が舞台になる場面や、売れない芸人(マジシャン)、芸の道への挫折、生活が困窮している主人公など、物語を根幹を成している要素はおおむね共通していると言って良いだろう。

・「母親」と向き合う

なかでも私が特に注目したいのは「母親との対話」である。2作とも形は違うものの、主人公がそれぞれ、少々不思議な形で「母親」と向き合う場面が登場している。『陰日向……』では多重債務を負うシンヤ、『青天……』では晴夫が、母親と向き合っているのだ。

・関係の断絶

それも、形式上は対峙しているにもかかわらず、実質的に向き合っているとは言えないのだ。この点については、作品の内容に大きく関わるので、2作をご覧頂きたいと思う。

重要な点は、それぞれの母親が、「自分は良い母親であったか?」と息子に問うことである。この二者が良き思い出を共有しているのであれば、およそ出てくるはずのない質問である。二者の間には関係的・時間的な断絶が存在するため、母親はこの問いを投げかけずにはいられないのである。

・誰にでもある親子の関係

断絶した時間を埋めるようなこの問いは、ひとり作品のメインテーマだ。それゆえに、見ている誰しもが自らの親子関係を振り返り、胸を締め付けられるような感動に駆られるのではないだろうか。作中では「タイムスリップ」という現実では起こりえない出来事をきっかけに、親子が向き合うことになる。その特殊な設定により、主人公(晴夫)は親の思いを知ることになる。

・「もしも」を想起させる

現実的にタイムスリップが起こることはないだろう。だが、見ている人にとって「もし」を想起させるに十分な内容だ。「私がもしも自分が生まれる前に戻ったら」……そう思うと、おそらく晴夫のように、父親に対して怒鳴りつけるようなマネをするのではないかと考えてしまう。女性であれば、晴夫の母親である悦子の気持ちがよく分かるはず。

・安吾と相通じる「思慕」

実はこのひとり作品に流れる「母子関係の断絶と回復」を、昭和の文豪に見ることができると私は考えている。その文豪とは坂口安吾だ。

安吾自身、母親の愛情を感じることなく、幼少期を育っている。作中にはあまり母親との関係について登場することはないが、彼が自然や女性に対して強い思慕の念を持っていることを、随所に垣間見ることができるのだ。その例が著しい作品が『ジロリの女~ゴロー三船とマゴコロの手記~』である。

・思い慕うがゆえに

この物語は、主人公のインチキ出版社社長(三船)が3人の女性を落とすまでを描いたものだ。しかしそう易々と物事が行く訳でもなく、自縄自縛で支離滅裂な行動の果てに犯罪を働いてしまう。そんな彼に光明を与えるのが会社の才女「ヤス子」である。

ヤス子は三船に「人の子の罪の切なさを知りました。(中略)あなたは清らかな方です」(坂口安吾著『ジロリの女』より引用)と言って慰める。この言葉は詰まるところ、安吾が女性に抱いた思慕の念が発しているものである。もう少し言えば、出来の悪い自分を慰める存在に発して欲しい言葉だ。その存在こそが「母親」だったはずなのである。

・安吾にはない「救い」

安吾作品はおおむね救われる形では描かれていない。ひとり作品には、その関係の断絶が回復される形で描かれており、多分に救いがある。だからこそ、大きな感動を呼ぶのではないだろうか。なぜなら多くの人の人生、ほとんどの人にとって咲くような花はなく、紙のバラのようにそれっぽいものを自ら作り上げることしかないのだから。

誰もが孤独で一人ぼっちだ。しかし誰もがそうであるからこそ、一人ではない、孤独ではない。そう、劇団ひとりさんの作品は教えてくれるようである。

参照元: 映画『青天の霹靂』
執筆: 佐藤英典