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高校球児の夢であり目標である高校野球選手権大会こと「甲子園」。毎年、数々のドラマを見せてくれる夏の甲子園は2014年で96回を数える。

そんな歴史ある大会のうち83年前に行われた1931年の第17回大会が注目されている。なんとこの大会、台湾の高校が甲子園に出場、しかも初出場にも関わらず次々と強豪を倒し決勝にまで進んでいたのである。その学校の名前は「嘉義農林学校(かぎのうりんがっこう)」。通称「嘉農(KANO)」だ。

・映画化により注目を浴びた「嘉義農林学校」

嘉義農林学校は、台湾中南部の現・嘉義市にあった農業系の高校だ。2000年に大学に昇格し、国立嘉義大学と改称されている。

その嘉義農林野球部は、日本統治時代(1895~1945年)に春に1回、そして夏に4回甲子園に出場。初出場のストーリーが映画化され話題となっているのだ。そして先日、6分間の予告ムービー「《KANO》六分鐘故事預告」が公開され、予告編だけで泣けると更なる注目を浴びている。

・当時の台湾

予告編を見て「あれ?」と思った人も多いだろう。台湾映画なのに、日本人役も台湾人役も全て日本語で会話しているのだ。それは、映画と舞台となった日本統治時代は現地では日本語教育が行われていたからだ。

・原住民、中華系住民、日本人の混成チーム

嘉義農林野球部の最大の特徴は原住民、中華系住民、日本人の混成チームであったことだ。当初は弱小チームだったが、元愛媛・松山商業監督の近藤兵太郎氏の特訓により強豪校になったのだという。

日本人選手がチームを引っ張ったのでは、と思いがちだが、第17回大会に出場したレギュラーは原住民の方が多かったとか。チームはどの民族が優れているなどではなく、完全に実力主義で、これは他校にはない嘉義農林だけの特色だったという。異なる民族の若者がひとつの目標に向かって奮闘する姿は、ひとつの理想の形であり、シンボルでもあったのかもしれない。

・初出場甲子園で快進撃! 当時の日本を震撼させる

そして、出場した1931年夏の甲子園! 過去にも台湾の高校の出場記録があるそうだが、台湾代表に対して特に強いという印象はなかったため、多くの野球ファンは気にもとめていなかったそうだ。

しかし、快進撃が始まった。次々と内地の強豪を倒し決勝まで駒を進めたのである! 残念ながら決勝では愛知代表の中京商業に敗れてしまったが、多くの日本人野球ファンが嘉義農林選手の活躍やスポーツマンシップに魅了されたのだという。

その様子を、嘉義農林野球会長の蔡武璋(さい・むしょう)氏は次のように語っている。

「(決勝で敗退し)準優勝という結果ではあったが、日本人は嘉義農林を『天下の嘉農』と呼んだ。日本人の目から見ても世界で一番素晴らしい野球チームだと思ってくれたということではないか」

・数多くの名選手を排出 / 日本プロ野球殿堂入りした呉昌征など

その後、嘉義農林出身の選手は日本や台湾野球界の発展に寄与したという。たとえば近藤監督の指導下で甲子園に出場した呉昌征(ご・しょうせい)選手は、のちに巨人や阪神で活躍し、1995年に日本プロ野球殿堂入りを果たした。

まさに、台湾野球界の礎(いしずえ)を築いたチームである嘉義農林野球部。第二次世界大戦や1947年に起こった「228事件」の影響で弱体化、解散の危機にも瀕したというが、現在は国立嘉義大野球部として活躍している。

なお、映画『KANO』は2月末に台湾で公開。3月7日には大阪アジアン映画祭で上映予定である。実話を元にしたとはいえ、これは映画なので多少の脚色はあるかもしれない。だが、長らく触れられることのなかった当時の雰囲気を感じることはできるのではないだろうか。

参照元:YouTube公視新聞、Facebook 映画『KANO』(日本語公式)
執筆:沢井メグ

▼こちらが多くの人が感動したという映画『KANO』の予告編

▼こちらの動画では当時の写真や映像を交えて嘉義農林野球部の紹介がされている

▼当時の嘉義農林野球部。選手の名前から日本人、中華系台湾人、原住民の混成チームだったことがわかる
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▼中央の呉明捷(ご・めいしょう)選手はエースで4番。早稲田大学に進学し東京六大学野球でも活躍した
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▼近藤兵太郎監督
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▼嘉義農林の活躍は当時の新聞でも報じられた
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